1.「はてな」のはじまり
原子爆弾の恐ろしさについては新聞やラジオで知らされたが、もつと個人的な状況でその知識を得たのは、永井隆博士の『この子を残して』(大日本雄弁会講談社、昭和24年、238ぺージ)を読んだからである。この本は私が買ったものではなかった。こういう単行本には関心のなかった父が、どういう気になったのか買ってきたのである。
それは、当時の評判の本だったからであろう(たとえば、読売新聞社主催の良書決定投票第一位獲得)。評判が高いものは芸者の歌謡曲のレコードでも買ってくる父だった。しかし家にこの本があったので私も読み、また永井博士の他の著作も読むようになった。永井博士の『亡びぬものを』(長崎日日新聞社、昭和24年、238ぺージ)は自叙伝であるが、長崎医大の物理的療法科(レントゲン、つまり放射線科)の現役の教授が、研究室にいるときに長崎の原爆を体験し、負傷した体験を書き記しているので貴重である。
そしてあの日の朝、元気で笑顔で自分を送り出してくれた奥さんが、帰ってみると台所の茶碗のかけらの傍で白骨になっており、それにはロザリオがからみついていたという……などなど、後々まで記憶に刻み込まれるような記述がある。それで「原爆は恐ろしい、放射線は怖い」ということもよくわかった。
ところが、大学に入ると「はてな」と思うことを体験することになった。学生寮に広島で原爆を体験し、その爆風のため、その方向に向けていた耳がやられて片耳が聞こえない学生がいたのだ。爆風で鼓膜がやられるくらいだから、放射線にも大量被曝しているはずだろう。
私はその男と二年ばかり同室だった(二人で一室)。また大学院でも同じ部屋だった。さらに卒業後は、隣り部屋に約三年間住んだ。その間、彼が耳以外で体の不調を訴えたことはなかったし、病院に行ったのを見たこともない。「放射線の害はどうしたのだろうか」と、時に思うことがあった。
これが「はてな」のはじまりである。また、終戦後に疎開して私の、クラスに編入された男がいる。疎開してきた同級生は、戦争が終わるとすぐに続々と東京に帰って行ったのに、なんでいまごろ疎開してきて編入されたのだろうと思った。そのうち、「彼は広島から来たんだよ」とこっそり囁かれるようになった。みんな原爆被害者には同情的だったから、人前ではそれに触れないようにしていた。
その彼が、定年退職をしたあとに展覧会に絵を出品したという案内をしばしば受け取るようになった。去年も上野の展覧会に出品している。絵が趣味だったのだが、いまではプロ級らしい。去年は久しぶりに、郷里で中学校の同窓会があった。20人ばかり集まった。みんな80過ぎの元気な爺いたちであるが、そのなかでも特に元気で活発なのが3人いた。2は禅宗の坊さんで、もう一人が例の広島原爆からの疎開者なのである。
その時、私は彼の口からはじめて原爆の話を聞いた。彼の家は爆心地から二・五キロで倒壊したが、彼は中学生で勤労動員のため、4.5キロぐらいのところにいたのだという。それでも被曝放射線量は相当なものではなかったか。私は彼から展覧会の案内をもらうたびに「はてな」という気になっていたのであるが、今度は「やっぱり」という気になった。
毎年、広島原爆の日が近付くと、被害者だった人たちが登場する。当然、老齢の人もいる。そういう人を見て、「そのうち"私は原爆被害者です"と名乗る人たちが九十歳や百歳になったらどうなるだろう」と言ったことがあった。その時は、子供たちに「そんなことを家の外で言ったら絶対だめだよ」と強く注意された。
2.福島原発事故のあと,日本財団で聞いた話
あの大地震・大津波に引き続き、福島の原発の事故が報じられた。そして時間が経つにつれて、大地震・大津波の被害よりも、原発事故問題のほうが日本人の心に重くのしかかるようになった感じがする。大地震や大津波の被害はいかに大きくとも、日本人ならそのうち復興するであろう。しかし、原発事故のほうは先が見えないような感じに、マスコミの世界ではなっているようだ。
個人的なことを言えば、私のスイスに住む孫娘まで、夏休みに日本に帰ろうとしたら「日本に帰っても大丈夫か」と知人たちに言われたという。日本の農産物や工業製品まで放射能の汚染を心配されて、輸出に被害が出たほどであった。
広い世界やマスコミの世界では放射線パニックが支配的である一方、かすかな声のごとくでありながら、福島の放射線の問題はそれほど騒ぐほどのことでないという確信に満ちた情報も出てきた。それらは、私の年来の「はてな」の疑問が正しいことを示してくれるものだったのである。
まず、日本財団で何度か耳にした話である。この財団はチェルノブイリの原発事故のあと、20年以上にもわたって20万人もの人の被害の追跡調査を続けている。チェルノブイリでは、原子炉内の核反応が暴走爆発し、黒鉛を使うタイプのものだったため、火事と思って消防士たちが駆け付けた。そのため、急性放射性障害を受けた人たちが30人も急死した。 しかし、その後の長期にわたる調査では、甲状腺ガンの死者が数10人、白血病は一人とのことである。ところが、内陸であるチェルノブイリの辺りでは海藻を食べる習慣がないので、甲状腺ガンは一種の風土病ともいえるものであり、放射線との関係を特定することは難しいという。
一方、福島第一原発では核分裂連鎖反応が、地震が来る前の予震波をキャッチして自動停止したため、原子炉の暴走はなく、急性放射線障害となった職員はおらず、その原因で亡くなった人はいない。
そういえば、放射線防護学の世界的権威の高田純博士(札幌医科大学教授)が昨年の四月頃に、普通のスーツ姿で福島第一原発の正門前に立っている写真が掲載されている雑誌を見た覚えがある。高田氏は福島第一原発の事故では、建屋の外にいる人体に危害があるほどの大量の放射線などあるわけがないことを知っておられたのであろう
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