2012年1月28日土曜日

このNPOの基本理念



「まちづくり」こそ最重要課題ver.5
写真は厚木宿/1860年頃撮影
【目次】
1何故か
2コミュニティの大切さ
3「コミュニティ」という
 言葉
4「公」という考えが必要
5「公」の解釈
6車社会がコミュニティを
 破壊
7結び
1 何故か

まちづくり,街づくり,町づくり,と言葉はいろいろ。今,これらの言葉の意味をしっかり考えなければならない時期にきたと思います。敗戦後半世紀間,都市部から農村まで国中を良くするために,インフラ整備に大変なお金をつぎ込んできました。しかし,その結果として今の地域社会を心豊かコミュニティだと評価できるでしょうか。

母親の赤ちゃん・幼児虐待,小・中・高校生の登校拒否やいじめ,そして悲惨な殺人事件,暴走族,オーム真理教,事業家の企業倫理の欠如,高級官僚の腐敗,党利党略に明け暮れる政治家の無責任,等々,異常事態は枚挙にいとまがありません。特に注目すべきは,地域社会の中でしか暮らしていない子供達の生活の実体です。しかも,世界一の貯金と債権を持った日本,大変な経済的繁栄と物質的豊かさの中でこれらの事件が起こっていることに注目するべきだと思います。

よく考えれば,経済・政治・文化等々全ての人間活動の帰結するところは,ひとり一人の幸せの実現です。その実現を一番底辺で支えているのが生活の土壌である地域社会(コミュニティ)です。このコミュニティの質こそがその地域の価値を決め,そこで育ち旅立って行く子供たちの将来も決めるのだと思います。そして国家の価値も。

2 コミュニティの大切さ

わたしたちは,「地域」の中,「町」の中,「まち」の中,「コミュニティ」の中でしか生きられません。子孫の存続を考えなければ,ロビンソン・クルーソーのように,どこでも一人でも,生きられるかも知れないが,人間らしい生活や生命の継承を考えれば一人では生きられません。

「親はなくても子は育つ」と言うのは本当かもしれない。変な親ならいない方がいいだろう。しかし,「コミュニティ」がなければ,子は育たない。 「親はなくても子は育つ」というのはコミュニティの存在を前提とした言葉であろう。社会生活をする人間にとって,コミュニティは絶対不可欠です。人間は「社会的動物」であり,コミュニティがなければまともな人間に成長することはできません。

「コミュニティ」は人間を育てる土壌です。土壌が良好に維持管理されていれば,そこには姿形も栄養も豊かなすばらしい野菜が育ちます。同様に,心の豊かさを育むようなハードを備えたコミュニティには,必ずや立派な人間が育ちます。世界にはそういう実例がたくさんあります。 
その逆は,結果も逆になります。だから,人間を育てる土壌であるコミュニティほど,大事なものはない筈です。しかし、残念ながら,我々は良好なコミュニティの形成について,真剣に研究し考えてきたとは言い難いのではないでしょうか。
3 「コミュニティ」という言葉

わたしは敢えて横文字は使いたくないが,「コミュニティ」のいい日本語訳がない。「住環境」,「集落」,「部落」,「地域社会」,等々訳語が考えられるが,いずれもしっくりときません。「部落」も「集落」も家の集合体を表しているだけのような気がするし,「住環境」という言葉は範囲が狭く感じる。「地域社会」という言葉は,範囲が広すぎるように思えます。
「コミュニティ」という言葉には,人と人の心の繋がり,つまりソフトウェアが含まれています。単なる家の集合体ではありません。

日本語には,ハードである物や構造物と,ソフトである心の持ち方や運用法方を合体した言葉が少ないような気がします。だから日本語に訳せない横文字が多い。わたしは敢えて「コミュニティ」を訳してみると,「連帯感のある集落」となりました。しかし,面倒くさいので「コミュニティ」をそのまま使うことにしました。

念のためブリタニカを引いてみると,「コミュニティ」では出ていなくて,「地域社会」の訳として「コミュニティ」と出てきます。そしてその後段で「コミュニティの概念とその意味」という子見出しで,次のように書いてあります。

「コミュニティという言葉は,実体的な地域社会を意味すると同時に,共同性をその一つの特質としているだけに,もともと人々の間の望ましい結びつきを意味する場合もあったが,1970年代以降の日本では,独特の価値的な含みをもった言葉として用いられるようになってきた。
 コミュニティという概念は,現実に存在する地域社会よりも,むしろ理念的なものとして,市民としての自主性と責任とを自覚した住民が,生活する地域に対する帰属意識を持ち,共通の目標を目指した共同活動をとろうとする態度を意味するものとして用いられた」。
更に,「地方自治体の役割が大きくなる中で,住民自治の単位を築いていくためにも,コミュニティには大きな期待が寄せられる」とあり,結局,「地域社会」とは意味合いが違うようです。

4 「公」という考えが必要

我々は戦後一貫して,図らずもコミュニティを破壊し続けてきたと言えます。幾つかの原因があると思いますが,一番大きな理由は,全体主義による悲惨な敗戦の結果,それに大きく助力した村社会にたいする無意識の反発があったと思います。村社会の締め付けの反動として,地域社会から束縛されることを嫌悪し,自分の権利と自由を強く押し出した結果,社会形成には不可欠な「公」(パブリック。官ではない)という概念が欠落してしまったと思います。

その一つの現れとして,土地と家は公的な存在物であるという価値観を捨ててしまったことが挙げられます。その結果,「自分の土地と家」は100%自分の所有物であり,一歩自分の土地に入ったなら「他人にとやかく言われる筋合いはない」というエゴイズム丸出しの価値観が生まれてしまいました。

土地は造った人がいないのだから,本来誰の物でもない筈です。たまたま何かの縁で使う権利を持っているだけで,たどり辿って行けば,侵略したかそれとも何らかの権力により所有したか,或いは与えられたか,どれかの筈です。だから,たまたま一定の代価を払ったことによって自分が使わせてもらっているだけ,と考えるのが妥当だと思います。それを所有権といったり,借地権といったりしているだけで,経済価値の計算の仕方の違いだけで名称が違うだけのことです。

家は,人間が個人で造る物としては最も大きく高価な構造物であり,その存在は景観を変え,街の雰囲気を変え,嫌でも大衆の目に触れる巨大物体です。これらが100%自分の所有物であると考えるのは,社会性を失った価値観だと言わざるを得ません。
家のインテリアは,他人目には触れないので100%自分のものと言っても良いかも知れませんが,外観は嫌でも他人の目に影響を与え,街の景観を大きく左右する訳ですから,公からの制約があっても当然です。つまり外観はパブリックなのです。
5 「公」の解釈

コミュニティには「公」の考えが不可欠です。このことは,寺島実郎氏(元三井物産戦略研究所長)も「正義の経済学」の中で指摘しています。小渕首相が,亡くなる前の所信表明演説で「公」の概念を強調したのは,余りにも遅すぎました。「公」という概念は,「官」と「私」をつなぐインターフェイスであり,社会の生成発展には不可欠な潤滑油のようなものではないでしょうか。わたしの解釈では,家に喩えるなら,インテリアは「私」だが,大衆のめに晒される外見は「公」ということになります。また公園は「官」の所有かも知れませんが,使い方は「公」だと思います。

コミュニティは,個と全体のホロニック(自立した個と全体が有機的に結びついている)な世界です。言い換えれば,家や緑地や公園や畑などを含む「まち」のハードウェアと,ソフトウェアである人々の日々の暮らしや想いとの調和の世界だと思います。家や土地が「100%自分の物」という価値観の中には,周辺との調和という概念は入り得ません。だからコミュニティは崩壊したのであり,残念ながら日本に美しい街並みやコミュニティは非常に少ないのです。

官・民と,公・私について作家の塩野七生さんが,2002年に日経(国交省の広告)に書いた記事「新しい国づくりの考え方「公と私」」がすばらしいと思うので,リンクしておきます。

写真は小田原宿/1860年撮影
昔は「いいまち」だったとよく田舎では話されます。私は中山道の芦田宿で育ちました。私が小学校に入学する前,確かに今思い出しても,人々の心が通い会うコミュニティがあったと思います。それを可能にさせていたハードウェアがあったからです。

まだ舗装もされていない芦田宿の通りには,両側に石垣の水路があり,各家の前には洗い場があり,きれいな豊富な水が流れていて,人々は朝から晩まで,水の用はほとんどそこで足していました。西側の水路は幅が広く、水草が生えていました。

井戸のある家はお医者さんとか,本陣とか,商売屋くらいで,ほとんどの人は共同の和泉に汲みに行くか,井戸のある家にもらい水をして生活をしていました。従って,朝から晩まで,人々はお互いに挨拶を交わし,井戸端会議をしながら生活をしていました。通りに車はほとんどなく,そこは子どもの遊び場であり,年寄りのくつろぎの場であり,買い物に来る人々との交流の場でした。まさしくそこにはコミュニティが存在しました。街道そのものがコミュニティの中心的ハードウェアでした。

6 車社会がコミュニティを破壊

しかし,その後どうなったかはご承知の通り,車の利便性と引き替えに,コミュニティの中心的ハードウェアであった道を車に引き渡してしまいました。水路はコンクリートで蓋をされ,路面は舗装され,車に占領されてしまった。車の利便性に気を取られて,コミュニティが崩壊していくのが見えなかったのではないでしょうか。

あるソフトが機能するためには,それが機能するためのハードウェアが当然必要です。人々が触れ合い交流するためには,その場が必要です。どうしてもそれを潰さなければならない時は,その代替えを考えなければならなかった訳ですが,そのことに気が付かなかった。気さえつけば,想いさえあれば,世界一の貯金額(1400兆円)の10%か20%を使えばできた筈です。日本中でコミュニティが崩壊してしまったのはこのような理由が大きいと思います。
7 結び

今問題なのは、コミュニティの衰退により地域社会が生命力を減退させ、基本的に全うに生きる力のない「おかしな人間」が増えていることです。すぐ切れてしまう,すぐダウンしてしまう,すぐ死んでしまう,簡単に人を殺す,そんなのが多すぎます。

日本中に「ふれあい……」と冠のついた建物や広場が盛んに作られるのは,日本中にふれあいが無くなってしまったことを証明しています。問題なのは,空き地に集会所を造ったり,町のはずれに公園を作ったりすれば解決すると思っていることです。
田舎の公園が町外れの寂しいところに造られていることが多いですが,一体誰がそこで遊びくつろぐのでしょう。公園はその街の人々が朝に夕にくつろげる様に、街の真ん中になければなりません。街の真ん中に造るにはきっと大きな困難が伴うでしょう。しかし,そこを何とかしていくのが政治であり,住民の努力ではないでしょうか。

コミュニティは人間を育てる土壌です。有機栽培,有機畜産という言葉が流行っていますが,有機社会を創りましょう。社会ルネッサンスを起こしましょう。

今日本は混迷の極みにあります。しかし,新しいうねりが起き始めています。今こそ,「コミュニティとは何か」,「誰がどうするのか」を真剣に考え,行動する時がきたと思います。
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NPO法人信州まちづくり研究会設立に当って 理事 安江高亮 初稿:20012
最終更新日:20121
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