2013年8月8日木曜日

「穏やかな道」

 私はこの文章に大きな感銘を受けました。そして,日本はこの「穏やかな道」をこそ歩むべきと強く感じております。

 世界に日本が貢献する道も,経済と軍事力ではなく,この「穏やかな道」の延長線上にあるのではという気がします。
 コミュニティづくりにもこの考え方を入れていこうと考えています。


 この文章の著者小林徹様(カナダ在住の建築士,既にリタイアー)との出会いは,1997年1月25日~2月2日,新建新聞社と長野県輸入住宅協会共催(既に解散)の,「北米型住宅」魅力検証ツアーでした。

 バンクーバーで,「北米型住宅セミナー」の講師を務めて頂き,翌日はバンクーバーの素敵な町をご案内頂きました。その時のバンクーバーの町の美しさは今でも鮮明にイメージすることができます。


 小林様とのつきあいはそれ以来です。「シアトル酋長の手紙」や「犬と鬼」などのご紹介やら,たくさんのすてきな文章や寓話を頂きました。

 この文章は,元々は2005年,姉歯建築士による耐震偽装事件によって日本の建築業界・官界・学会が大混乱していた時に,日本の世情を憂えてカナダから送っていただいたものです。

 今回,姉歯の事件を知らない方も多いだろうと,その部分を訂正してお送り頂きました。ご了解を頂きこのブログに掲載させて頂きました。


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穏やかな道

小林 徹

 人間が生活するうえにおいて、コミュニティ造りは非常に大事なことですが、今の日本社会では、コミュニティを云々する以前の問題が多いように思います。

 たとへば、民主主義というのを例にとってみますと、民主主義というのは、文字通り、「民主」、すなわち、民が主です。しかし、そのためには、社会を構成する一人一人が、主となれるだけの、個の確立と自覚が必要なのです。
 しかし、戦後、日本は、民主主義のなんたるかを知らないまま、アメリカに民主主義を押し付けられ、戸惑ったあげく、得意の箱文化で、一見、民主主義の体裁を整えました。 箱文化とは、中味より、まず、外見を整えることが大事、つまり、外見のパッケージのデザインの方に気がいく文化のことです。人間でいえば、肩書きや、権威に、より関心が向く文化ともいえます。

 かくて、外見は民主主義の格好になりはしましたが、その実態は、民主主義の単位としての個人の確立などとは程遠く、日本独特の「会社主義」ともいえるものに走っていったのです。
 戦後、早急に経済の立て直しをはからねばならなかった政府の教育方針は、それを全面的にバックアップし、人としてあるべき成長ではなく、企業に適した人材の量産に焦点を合わせていきます。
 結果、人の幸せよりも、会社の効率を優先する社会になってしまったわけです。会社の効率をはかる単位はお金ですから、その価値基準にそった社会が出来上がっていく。あげく、「金でなんでも買える社会」の出現です。いや、この言葉は語弊があります。「金で買えるものに、なんでも価値を置く社会」と言い直した方がいいでしょう。

 しかし、会社をとっぱらい、国をとっぱらい、地球の中に存する「人間」としての観点から、自分自身をじっくり振りかえる時間的ゆとりを持ち、ベクトルの向きを、外から内へと変えさえすれば、おのずと分かってくることなのですが、この世の中で、真に自分にとって価値のあるものは、すべて、お金を払わずタダでもらったものばかりなのです。命しかり。

 教育というのは、遅れて成果が見えてくるものです。その時間的ずれは、どれくらいでしょう。少なくとも30年でしょうか。とすると、親が子を教え、その子が成人して、親になって、また子を教えて60年。今の日本の世相は、戦後60年の教育成果ともいえます。その観点からすれば、意外と、成る可くして成ったともいえるのではないでしょうか。少なくとも、最近になって急に世の中がおかしくなってきたのでは決してないのです。

 戦後の日本の教育の特徴は、外の知識の獲得、いわば、ベクトルを自分の外に向けることばかりで、ついぞ、自分自身の発見、つまり、ベクトルを自分の内面に向け、自分の中に井戸を掘り、自分の中から湧き出る水を汲み上げることは、教えてはこなかったようです。実は、この手助けをすることこそが、本当の教育なのですが。

 人間の行動の動機を掘り下げていくと、つまるところ、愛に根ざしたものと、恐怖に根ざしたものとの、二つに分けられるといいます。恐怖に根ざしたものからは、幸せや充実感、生き甲斐が得られないのは当然のことです。

 ところが、日本の教育の大半は、実は、恐怖に根ざしたものです。子供を、やみくもに塾に通わせるのは、そうしなければ、将来、いい大学に入れないという恐怖。いい大学に入れないと、いい会社に入れないという恐怖。いい会社に入れないと、いい生活ができないという恐怖。
 もし、文科系より理科系の方が、就職がし易いと聞けば、子供の適正を曲げてでも、理科系に適合させようとする。人それぞれ、成長速度が違うのに、一律のマス教育のレールに乗せようと必死なのも、もとをただせば、すべて、この恐怖心に根ざしております。

 あげく、自分を知ることなく、自分の泉を見つけることなしに大人になってしまい、気がつけば、まったく自分に向かない土俵の上で足掻いている。まるで、マラソン・ランナーが、相撲の土俵に上がったようなものです。マラソンしてれば楽しめたはずなのに、柄にもなく相撲をとっては負け、「人生は辛く厳しいものだ。負けたのは、まだまだ修行が足りないからだ」と思い込んでいる。このような人たちが日本には溢れすぎた。
 そういう親たちを、日頃、見つづけている子供たちは、将来、希望を持てるはずもなく、大人になる意欲が湧いてくるはずもありません。ニートが急増しているとしても、まったく、不思議ではないのです。

 今、ニートに必要なのは、親のいうことを聞いて既存の社会に合わせるよりも、自分の船を造ることです。「自分の船の船長になりきること」これは、北米大陸のネイティブ・インディアンの教えです。
 実は、私は、これからのサステイナブルな社会には、ネイティブ・インディアンの思想と智慧を見直すことが必要ではないかと思っているのです。

 彼らの伝承によると、今から七千年くらい前の北米大陸の社会でも、すでに、ニート的な人たちがいたのですね。当時、種族が生きていくための大切な仕事は、実や種を集めることでした。しかし、それに、うとく、適さない人たち、つまり、今でいうニートですね。
 ニートは、実や種を集める仕事を放りなげ、ブラブラしながら、ついつい遠くを眺めます。遠出して遊びます。そして、遠くに湖を見つけるんですね。懸命に、実や種を探して、近くばかり見ていた人たちには、遠くの湖が見えなかったのです。

 彼らは、こう言い伝えます。「遠くを眺めて水を見つけることの重要性を発見したのは、実や種を集める仕事に、うとい者たちであった。生きていく上で一見筋道の通ったことだけでは、手近な情報を越えたものに決して目が向かないのだ」

 いつだったか、こちらの新聞のアンケート記事で、「人生で一番大切にするものはなにか?」という問いに、「自由」と答えたカナダ人が一番多かったそうです。
一方、日本人は、生活の為に、意外と簡単に「自由」を捨て去ってしまうようです。

 「元請け、下請け」などの日本的な絆の中で、生活の為に、人としての自由と誇りを捨て去って、会社に隷属化していくことも多々あるのではないでしょうか。

 ネイティブ・インディアンの言い伝えに、次のような言葉があるそうです。

 「身を守るためのどさくさは、穏やかな道のやさしい音を掻き消してしまうことが多い」

 昨今のニュースを見ても、目先の生活を守ろうとして、なりふりかまわずこなす仕事のどさくさの中で、たとえ、ささやかではあっても、まっとうな人として歩めたであろう穏やかな道の、やさしい音が、掻き消され、聞こえなくなってしまい、気がつけば、道を踏み外してしまっていたというような人が、実に多いようです。

「穏やかな道」とは、愛に根ざした道であり、「やさしい音」とは、自分の中から沸きおこってくる泉の音です。この「やさしい音」に導かれて辿る「穏やかな道」の向こうに、おのずと、あるべきコミュニティの形が見えてくるはずです。


注:伝承は、Paula Underwood 著 The Walking People(日本語訳 一万年の旅路 星川淳訳よる

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