2020年3月8日日曜日

ネットにあふれる農業と食の不安を考える

 講師の 公益財団法人 食の安全・安心財団 理事長、東京大学名誉教授 唐木英明氏は的確に答えてくださっています。(編者)

農村経営研究会 NEWS KETTER 2020年2月号 より

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「ネットにあふれる農業と食の不安を考える
 ~どのように対処すべきか?」

農業技術通信社は2020年1月30日、新年会を開 催しました。記念講演の講師を務めた唐木氏は農学博 士で獣医師でもあり、食品安全の第一人者としてBSE 問題などに対処してきた人物です。
 いまネットにあふれる農業と食の不安に、どのように 対処すべきなのでしょうか。冒頭で唐木氏は次のよう に述べました。 「答えはリスクコミュニケーション(以下、リスコミ)をき ちんとやることだ。リスコミは相手が信じていることを覆 すリスコミは戦いだ。戦略と戦術と訓練がないと失敗す る。実践を通して教訓を得ることが大切だ」
 唐木氏は、BSE 問題をきっかけに始めたリスコミの 経験を踏まえ、リスコミのために必要な4つのポイント を挙げました。人の本能を理解することは農村経営で も必要な場面があります。以下、概要を紹介します。

不安の程度を知る ―知識と行動のギャップ 
 リスコミは、まず相手の不安の程度を知ることから 始めなければならない。 食品安全委員会のアンケート調査(2018年)では、 食品の添加物が「とても不安」と答えた人は 44%、残 留農薬が「とても不安」と答えた人は 49%に上る。一方、 消費者庁の調査では無添加表示を気にしている人は 約半数で、常に無添加食品を買うと答えた人は約1割、 無農薬野菜を買うと答えた人は6%にとどまる。つまり、 アンケート調査と消費行動にギャップが生じている。
 人間の社会行動は、多くの人がどう考えているか、 自分がそれと違うことを言ったら批判されるのではな いかという心理が働く。そのため、アンケート用紙で 「怖いか」と聞かれると「怖い」と答える。それが調査と 行動のギャップに現れる。知識レベルの不安が大きい が、消費レベルでは不安が小さい。しかし、知識レベ ルの不安がいつか消費レベルに進むことがある。その 前に不安に対処することが重要だ。

不安の原因を知る① ―社会の変化による強まる利己主義
 不安の原因は何か。それを知るには、社会の変化と 人間の本能を捉えておきたい。
 社会の急速な変化によって何が変わったのか。そのひとつはリスクの種類だ。古くからある食中毒菌、腐敗、 異物などのリスクは五感で認識できる。しかし、工業社 会で生まれた新しいリスクの化学物質、放射性物質、 遺伝子組換え、BSE のプリオンなどは五感では認識で きないもので、専門家が科学技術を使って初めてわか る。この新たな非常に厳しい管理で被害者が少ないに もかかわらず、わからないものには不安を感じる。ドイツのウルリヒ・ベッグが著書『危険社会』の中で、『被害 はすべての人に平等に現れ、将来世代にも影響を与 え、すべての人を不安に陥れる』と語っている。
 もうひとつは情報技術の変化である。かつては新聞 やテレビがフィルター機能を持ち重要な情報だけを伝 えていたが、SNS によって情報発信は民主化されフィ ルターがない時代になった。情報過多で処理困難に陥 った。それによって何が起きたか。人々は同調する情報だけを選択し、インターネットは同調する情報だけ提供するようになった。匿名性によってフェイクニュース や陰謀論が増え、利己主義や排他主義が強まり、自 分が正義だという風潮が生まれた。
 さらに変化したのは司法、立法、行政の対立と混乱 である。たとえば、文科省の学校給食衛生管理基準に より学校現場では無添加食品を使用する動きが出て いるが、厚労省では、添加物は100%安全だとしてい る。また立法は化学肥料、農薬、遺伝子組換えを使用 しない有機農業推進法を定めたが、農水省は3つを許 可している。国民は科学者や政府は真実を伝えている のかという疑問を持ち、何を信じてよいかわからない時代になったのである。

不安の原因を知る② ―危険に敏感な人間の本能 
 技術が進歩し社会が変わっても、人間は変化に対応 できない。狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会、 そして日本は Society5・0の未来社会を目指すなかで 人間の本能は工業社会にも対応できていない。
 社会が変わるなかで、変わらないのは人間の利己 主義だ。これは生き延びるための動物的な生存本能 である。人間がつくった社会では利己主義を抑えない と生きられない。しかし、かつての地域社会のような利 己主義を抑制する仕組みが薄れ、現代は利己主義が 強まっている。2つの大戦後、排他的部族社会で多様 化を認めない時代から、グローバリズムによる多様性 を認める時代になったが、生物学者の観点では、この 時代は人間の本能に反する。いま再び他者や多様性 を認めない時代になりつつある。
 人間は本来、少ない努力で直感的に結論を求めよう とする。これをヒューリスティックと呼ぶ。危険から逃れ るための動物の本能である。恐怖も不安も危険なものから逃げるための感情だが、恐怖は対象がわかるも のに対する感情で、不安は対象がわからないものに対 する感情である。遺伝子組換えや添加物、農薬など、 わからないものを拒否するのは人間の本能なのである。
 また自分の命を守るために「危険」や「不安」という情 報は聞き逃さない。一方、「安全」という情報には注意 を払わない。これが危機回避のバイアスである。する と、情報にアンバランスが生じる。危険を伝える情報は あっても、安全を伝える情報が少ないのはこのためだ。 危険を伝える媒体より安全を伝える媒体は売れない。
 さらに人間は信頼する人に依存する本能を持っている。進化の過程で、知識と経験があるリーダーの言う とおりすることで危険から逃れてきたからである。現代 は、メディアから SNS のスーパースプレッターが信頼 する人になりつつある。
 しかし、危険回避バイアスをひっくり返すものがある。 認知バイアスである。そのひとつが「利益」である。車 を運転するのもリスクがあるにもかかわらず、便利さと いう利益があるので楽観バイアスが働き運転する。年 間3000人以上が交通事故で亡くなっているが騒がれ ず、食中毒で2、3人が亡くなると騒がれる。また繰り 返し聞く危険情報に「慣れ」ることや、自分に対する社 会の「評価」も危険バイアスを変えてしまう。
 このような人間の本能によりどんなことが起きるのか。 厳しい規制で安全が守られている食品添加物、残留 農薬、遺伝子組換え食品、中国産食品に対しては健 康被害のリスクが小さいにもかかわらず不安が大きい。 一方、個人の責任による食中毒や過食、野菜不足、喫 煙、飲酒、いわゆる健康食品など健康被害のリスクが 大きいものには不安が小さい。このように多くの場合、 安全なものを危険と感じ、危険なものを安全と感じる。

不安をつくるメカニズムを知る③ ―ラウンドアップの風評を例に 
 人間に恐怖感を植えつけるのは簡単で、安心感を与 えるのは難しい。したがって、恐怖感をあおるビジネス が生まれるのである。
 たとえば農薬のラウンドアップの例で見てみよう。ラ ウンドアップは1974年に発売されてから優れた農薬 として世界に広まったが、1996年、遺伝子組換えの 反対運動に巻き込まれてしまう。さらに2015年、国際がん研究機関が「おそらく発がん性がある」グループ2 A に分類して発表したことが大きく影響した。
 この背景には2人の無責任な行動がある。 2012年にセラリーニがラウンドアップの危険性を 伝える論文を発表した。しかし証明がごまかしだった のことがわかり論文は却下された。セラリーニはモン サントの陰謀だと主張したが、2013年には論文を撤 回し、17 年、グリホサホートに毒性はないと発表した。 同時にラウンドアップの特許を使用した商品に添加さ れている界面活性剤が問題だとしたが、ラウンドアップ に触れなかったため科学者の間で信用を無くしている。
 2014年、国際がん研究機関は「おそらく発がん性 がある」と結論づけた。米国の AHS は2013年からラ ウンドアップは発がんと無関係という論文の準備を始 めたが、国際がん研究機関の委員長のブレア博士は 故意に AHS 論文の発表を遅らせ、2015年に「おそら く発がん性がある」として記述した。このことはブレア博 士自身がロイターの取材で認めている。
 セラリーニの論文を宣伝する映画と、国際がん研究 機関の記述によりラウンドアップ(グリホサホート)は危 険だという風評が世界に広まったのである。
 すると米国の弁護士が不安をあおるビジネスを展開 した。米国では約4万人がラウンドアップを訴える事態 となっている。これまで行われた裁判では、裁判官や 陪審員たちに対して、事実よりも感情に訴えた原告側 が賠償金を勝ち取った。勝訴した弁護士は、後にモン サントを脅迫して高額の企業弁護士契約を迫り、逮捕 されている。

リスコミでできること④ ―正しい情報に加え信頼関係を 
 BSE 問題、福島原発の問題、中国産の問題、添加 物、残留農薬、遺伝子組換えなど、食品安全の問題は 安全対策とリスコミの2つで解決できる。
 リスコミは、正しい情報をたくさん伝えることが効果 的だ。米国のテレビ番組で遺伝子組換え推進派と反対 派が討論したところ、反対派が 32%から9%に減った。
 また食品安全委員会でモニターを対象に2年間の 調査を比較した結果、残留農薬に対して不安と答えた 人が約8割から5割に減っている。添加物も遺伝子組 換えも数値は減っている。しかし、細菌やウイルスの問題など、実際に起きている問題については減ってい ない。つまり正しい理解が進んでいるということだ。
 前述のように、相手は早く判断することを求めている。 発信する側は、正しい情報をどんどん伝えることが効 果的だ。すると相手は論理的で科学的な判断ができる ようになる。それにはメディアの協力が必要だ。現在、 食品安全委員会では毎月メディアと意見交換し、誤解 を解けるよう科学的な情報を出す努力をしている。
 しかし、科学的に正しいことを伝えても理解してもら えないこともある。低線量放射線はリスクが低いという 科学的に正しいことを言った専門家は訴訟を起こされ た。ターリ・シャーロットは著書『事実はなぜ人の意見を変えられないのか-説得力と影響力の科学 』で「人を動かすには感情に訴えるしかない」と語っている。
 リスコミの最大の課題は、本能としての先入観と確証 バイアスである。自分の先入観と一致する情報だけを 集め、異なる情報は無視したり反発したり別の解釈を する。これが確証バイアスである。同じ先入観を持った 人たちがグループをつくって対立する。人間は狩猟時 代から変わっていないのだ。
 では事実とは何か。合意がなければ事実は意見の ひとつにすぎない時代になっている。もうひとつの手段 は感情的なアプローチである。「理屈はわからないけ ど、あなたが言うなら私は信頼する」と言ってもらえる ような信頼を得ることが最終手段である。

最後に ―企業はリスコミをやるべきか?
 人間の本能を悪用した不安ビジネスが横行している。 情報戦争時代のなかでは、フェイクニュース対策が必 要だ。間違った情報が出たら、すぐに違うと否定しなけ ればならない。企業は商品名や企業名を出されて誤報 されても、次のネタにされることを恐れ反論しない。こ れが週刊誌を増長させ、モンスター客を養成している。 企業はリスコミをやるべきである。(談)

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