2020年9月17日木曜日

持続可能性が高いニュージーランドの管理放牧畜産

少々古い記事ですが、内容は未来を語っています。
長野県では2017年から、小布施牧場がこのスタイルで操業しました。
(お断り:文字に色付けしたのは編者)
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『農業経営者』201711月号より
[特集]持続可能な農業・農村へ

「パイオニア 持続可能性が高いニュージーランド・スタイル」
小谷 栄二氏(58)ファームエイジ(株)代表取締役

牛も鹿についても、ニュージーランドからインパクトを受けた。ニュージーランド式酪農の普及に努めて30年あまり。農業を変えるためには農村が変わらなければならない。
【豊かなニュージーランドの酪農と出会い】
私は、現在の会社を設立する30年ほど前まで、米国式の酪農を普及する仕事をしていた。1頭当たりの搾乳量を増やせば増やすほど儲かる。頭数を増やせば増やすほど儲かる。搾乳量と頭数が多い人がいちばん偉い。そう信じていた。しかし、ニュージーランドの酪農に出会ったことが私の転機となった。

ニュージーランドで私が見たのは、当時の日本の酪農とは全く別の世界だった。酪農家の自宅を訪ねると、テニスコートやプールがあり、きれいなドレスを着た奥さんがイングリッシュティーと手づくりのクッキーでもてなしてくれた。聞けば、年に2、3カ月、海外旅行に行く酪農家も多いという。例えるなら、ニュージーランドの酪農家は、日本での医者と同じようなステータスであり、憧れの職業だったのである。
経営内容を見ると、ニュージーランドでは搾乳日数が少なく、1頭当たりの年間搾乳量は日本の半分にとどまる。乳価は、先進国のなかでも最も乳価が高い日本に比べて、いちばん安い。それなのに、経済的にも時間的にも余裕がある暮らしをしている。その理由は、短時間労働かつ低コストで済むような牧場設計のノウハウにあった。
日本では、酪農家は1年365日、24時間拘束され、奥さんも働き手である。飼料は輸入した穀物飼料を買って与え、乳量を競っている。それでも利益は少なく、離農者は多く、子供たちも跡を継がず、新規就農者も少ない。
「日本の農業を変えたい」
私は、ニュージーランド式の酪農を日本に導入しようと、牧場設計に必要な電気柵の会社を立ち上げた。1985年のことである。
【全体設計された放牧で豊かな酪農へ】
当時、日本でも放牧は行なわれていた。しかし、ニュージーランド式放牧が日本の仕組みと決定的に違うことがある。それは、人手とコストをかけないように、全体のシステムがきちんと設計されている点である。システムの概要は次のとおりである。

まず、農場を電気柵で区切り、複数の牧区を設ける。搾乳ごとに次の牧区へ牛を移動させて草を食べさせ、最初に放牧した牧区の草丈が1520cmに生長したら、また元の牧区に戻すというローテーションを組む。そのため、牛は常に草丈1520cmの柔らかくておいしい草を食べることができる。
若い草のエネルギー量は、じつはトウモロコシに匹敵するので、濃厚飼料の給与量を減らすことができる。また、牛の糞によって牧場の土壌は本来の生態系を保ち、更新しなくても草が良く生育する。
牛舎から牧区に向かう牧道は、牛が怪我をせず歩きやすいように整備したり、フェンスやゲートを設けたりして、牛が自分で牧区まで移動できるようにしている。水飲み場まで牛が遠い距離を移動しなくても済むように、牧区の中には水槽を設けている。
さらに、牛の品種改良も設計のひとつである。乳量が多い牛よりも、人手をかけずに済むような従順で歩くのに適した品種に改良されている。
私は、まずはこのような全体システムのツールとして必要だった電気柵の会社を立ち上げた。
その少し前、ニュージーランドで電気柵の営業をしながら酪農をしている人を別海町の酪農家、今井真人氏に紹介した。今井氏は研究熱心で、すぐにニュージーランド式の放牧を始め、その後ずっと私のことも応援してくれた。
それから30年あまり。現在、ニュージーランド式放牧を営んでいる酪農家は、北海道を中心に400軒以上になる。
それでも、変革のスピードは遅かった。放牧を始めるというと、白い目で見られることもあった。そんな状況から脱却したいと思っていた数年前、また転機があった。
ニュージーランドの駐日大使が、北海道との関係を考えたいと言って訪ねてきた。私は、三方良しの精神を伝え、「まず与えなさい。ニュージーランドの酪農の優秀な人材を北海道に連れてきてほしい」と話した。ニュージーランドの力を借りれば、日本の農業を変えることができると思ったのである。

それがきっかけとなり、ニュージーランド政府、日本政府、北海道庁、ホクレンが協力体制を敷き、2014年8月から「ニュージーランド北海道酪農協力プロジェクト」がスタートした。
当時はTPP交渉の最中だったため、正式発表前、誤解を受けるような間違った報道をメディアにされてしまい、周囲から「北海道を売るのか」と責められて困ったものである。
こうして始まったプロジェクトで実施された調査で、上述の「若い牧草のエネルギー量は、トウモロコシに匹敵する」という事実が明らかとなった。こうしてニュージーランド式放牧は、理にかなっていることが証明された。

50~100年のスパンで考えると、現在の畜産は工業的である。人間はもともと牧畜の知恵を持っており、放牧によって草を家畜に食べさせてきた。現在は、米国の水資源を使った穀物を輸入して牛舎の中で与えている。結果、生態系が崩れ、他国の環境に負担をかけ、人間は長時間労働することになり、経営は不安定になった。
本当に良い食とは何か。その価値観は世界的に変わりつつある。欧州では、4時間以上放牧した牛の乳からつくられた乳製品にのみ付加価値がつき、米国でもオーガニックに力を注いでいる。日本でも環境意識や健康意識が高まるにつれ、遠からず、そういう時代が訪れると思う。放牧によって時間に余裕ができれば、加工品をつくる時間を確保でき、付加価値の高い製品を販売することもできるだろう。
【獣害対策から野生動物との共生へ】
私がエゾシカと関わるようになったのは、会社を設立して間もなくのころだった。当時、北海道におけるエゾシカの被害総額が約1億円に達し、深刻な問題として認識され始めていた。かかしを立てたり、犬を使ったり、石鹸をぶら下げたり、漁網を張ったり、さまざまな対策が試みられたが、どれもうまくいかなかった。
農業を変えるには、獣害から守ることも会社の使命ではないか。もしかしたら電気柵が対策になるのではないか。そう考えて海外の文献を調べたところ、これもニュージーランドにヒントがあった。

ニュージーランドは世界でいちばん鹿を飼っている国である。狩猟目的で英国から連れてきた鹿が増えすぎたため、一斉捕獲をして数を減らした。ところが、鹿の肉はドイツに、角は韓国に売れるとわかったため、今度は鹿を家畜と同じように飼い始めた。
ニュージーランドの鹿の飼育にも電気柵が使われていたことから、日本のエゾシカ対策にも応用できると考えた。そこで、鹿用の電気柵や金網、フェンスを日本に導入してみると、獣害防止に成功し、あっという間に広まった。
当時、行政には生産者や住民からエゾシカ被害の訴えが寄せられていたが、行政が注目した解決策がこの電気柵だった。1990年、北海道庁にエゾシカの「北海道エゾシカ問題検討委員会」が発足し、私も民間から検討委員として参加した。行政や大学教授らと共に、エゾシカ用電気柵導入マニュアルを作成し、全道に配布した。

私は、当時、エゾシカを畑から締め出すだけでは真の解決にはならないと訴えてきた。畑で作物を食べなければ、山の木を食べるので、山林の問題が発生してしまう。山林の問題は、河川や大気の問題に発展するだろう。したがって、間引いて個体数を調整しなければならない。

個体数が増えた要因のひとつに、エゾシカの天敵であるエゾオオカミを人間が絶滅させてしまったことがある。つまり、人間がオオカミの代わりを務めなければならない。一方で、捕獲しすぎて生態系を壊してもいけない。
獣害対策の先には保護管理が必要だ。さらに、食肉として有効活用することもできる。その取り組みが始まったきっかけは欧州視察にあった。

97
年、北海道大学名誉教授の大泰司紀之先生を団長とし、道庁や市町村などの行政担当者、研究者らの欧州視察があった。それに私と社員の井田宏之も同行し、捕獲から有効活用までを視察した。スコットランドには、鹿の管理全体をコーディネートする「アカシカ協会」があることや、欧州では鹿肉が高級食材として有効活用されていることを学んだ。

参加メンバーは滞在中、鹿肉有効活用の原稿を書き上げ、『エゾシカを食卓へ』という一冊にまとめた。帰国後、日本でも「アカシカ協会」のような協会をつくろうという話が持ち上がり、99年、「エゾシカ協会」(任意団体、後に社団法人)が設立された。大泰司先生を会長に迎え、視察に同行した井田が事務局長に就任した。
協会が取り組んできたエゾシカ肉の衛生管理のマニュアル作成や認証制度は、じつに画期的なことだった。

こうして、エゾシカ問題は獣害対策から始まり、有効活用にまで広がっていった。次に目指すところは、生態系まで視野に入れた野生動物と人間との共生である。野生動物は、家畜と同じ動物性たんぱく質だ。もっと言えば、生態系の循環のなかで健康に育った野生動物は、畜産の目指す究極の動物の姿でもあると思う。
【多様な人材を受け入れ持続可能な農村へ】
農業を変えるには、農村を変えなければならない。それが移住者を受け入れようと考えたきっかけである。ニュージーランド式放牧に取り組み始める人もいる一方で、やはり離農者は増え、農村の人口も減っている。私は悩んだ。自分がやっていることは、本当に農業の変革になるのだろうか。

そんなとき、びっくりドンキーの創業者がニュージーランド式放牧に関心を持ち、勉強会の支援を申し入れてくれた。それが全国の人に放牧から加工までを学んでもらう「グラスファーミングスクール」を始めるきっかけとなった。

加工業や外食産業と関わってみると、農業は、農業だけでは変えられないと感じた。米国の穀物戦略を含めた社会の構造のなかに組み込まれているからである。例えば、外食産業は約20兆円、仕入れは約8兆円、うち約4兆円は輸入食材である。4兆円と言えば、北海道の農業の売り上げの約4倍である。農業を変えるには、加工や飲食とも組まなければならないと考えた。

しかし、一人では変えることができない。農村で何か新しいことを始めようとするのは大変なことだからである。全国から変わり者が集まれば、加工や飲食、販売ができ、変えられるのではないかと考えた。
農村に多様な人材を入れよう。そう考えて始めたのが、当別町金沢地区に移住者を受け入れることである。移住者たちが、必ずしも生産から加工、販売までをするわけではなく、農村に多様な人々がいることが重要だ。移住者の受け入れを始めると、じつに多様な職業の人々が集まった。現在、移住者は30軒以上に達している。

私は、農村に多様な人材を増やすとともに、この金沢地区を新しい時代の農村の姿のモデルにしようと考えた。新しい時代というのは、持続可能な農業・農村である。ヒントは、ニュージーランドや欧米のライフスタイルファーマーである。都市近郊で、小さな放牧経営をしながら生活する人をそう呼んでいる。酪農は、大きな経営になると、為替や世界情勢に影響される。しかし、小さい経営は、飼料を自給し、何軒かが集まって協力すれば、付加価値の高い乳製品に加工することもできる。

ニュージーランド式放牧も、野生動物との共生も、多様な人材を受け入れることも、私が一心に目指してきたのは、持続可能な農業・農村をつくることである。その先には、ニュージーランドで見たような、豊かな暮らしがある。
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2020年9月8日火曜日

「地域づくりは楽しい」より


Livedoor blog からです。

「地域のミツバチ 井上貴至の元気が出るブログ」というサブタイトル、
異色の内閣府若手官僚が書いています。



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9月5日 スマート・テロワール

都の学芸出版社の本は、どれも素晴らしいのだが、この本は特に秀逸。
カルビー(株)の元社長・松尾雅彦さんの『スマート・テロワール 農村消滅論からの大転換』





















カルビー1社で、7,000ヘクタールの農地と契約し、「ポテトチップス」や「じゃがりこ」などのポテトスナックを年間約1,000億円売り上げているが、供給過剰となった水田100万ヘクタールを畑作・畜産に転換すれば、約150倍の年間15兆円の産業となり、自動車業界の年間輸出額12兆円を超えると力強く主張する。

大豆や畜産などの食料自給率が低いことは、むしろ伸びしろがあるチャンスと捉える。

そして、先に成熟化したイギリスやフランス、ドイツ、アメリカなどを例に出しながら、成熟化した日本経済の復活は、農村経済の復活しかないという。

農村が自給圏を支える基礎となるためには、プロセスイノベーション、プロダクトイノベーション、マインドイノベーションが必要だという。

品質をどうするか、どのような加工をするのか、倉庫を持てばいいのか・・・第一線の経営者として、アメリカやヨーロッパを視察し、研究を重ねてきたので、とても説得力がある。

更に、パッチワークの農村風景を守るために「日本で最も美しい村」連合を立ち上げ、電線や電柱、看板を撤廃し、景観条例の制定を進める。そうして創ったアルカディアこそ、地元の誇りであるし、質の高い観光や地元の加工食品の消費につながるという。


理論と実践、哲学と現実が融合していて、とても興味深い。この美しく、力強い考えを広げていきたい。














<井上貴至のプロフィール>
http://blog.livedoor.jp/sekainotakachan/archives/68821812.html

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2020年8月30日日曜日

なぜ「抽象化が上手い人」は富裕層になれるのか?

MAG2N E W Sから。

私もこれがうまくできませんが、
ここに書かれていることはその通りだと思います。
納得です。かくありたいと切望するところです。

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なぜ「抽象化が上手い人」は富裕層になれるのか?

具体の世界は貧困の巣窟

ビジネスのシーンにおいて、会議や営業相手に説明やプレゼンをする時、「もっと具体的に言ってよ」「抽象的すぎてよくわからない」などと言われることがしばしばあります。これは言い換えれば、「もっとわかりやすく伝えてもらわないと理解できない」ということです。そんな具体化したことでしか物事を考えられない人がほとんどだと語るのは、米国公認会計士でフリー・キャピタリストの午堂登紀雄さん。午堂さんは自身のメルマガ『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』の中で、具体と抽象についてわかりやすく解説し、抽象化能力に長けている人こそ、成功者になれると述べています

「困った人」に粘着された話

先日、私が執筆したある記事がヤフーに転載されたのですが、それを読んだ読者からツイッターでツイートが来ました。「根拠を提示せず、適当なことをヌカしてますね」と。
そこで、丁寧に「当該記事のメインメッセージは『自分の支出を見直そう』ですけど」って助言してあげたのですが、どうやらカンに触ったようです(笑)「だったらそのように書け」と返ってきました。
それで、「冒頭と最後の2か所にも書いてます」と返信すると、「そうじゃなくて根拠を示せ。でないと与太話」と来ました。面倒なので「信じないのも自由。どう判断しようと読者の自由です」と返したのですが、しつこく絡んでくるので無視することにしました。
せっかくですので今回は、なぜこういう人が生まれ、こういう反応をするのかの理由を考察してみました。

具体の世界で生きている人は、抽象の世界が見えない

筆者が普段、執筆するコラムのように「富裕層の特徴は~」などと一般化した話というのは、抽象度を上げて紹介しているわけですが、ゆえに理解できない人は少なくありません。というか圧倒的多数の人は抽象的思考が苦手です。
たとえばトヨタの「プリウス」。これを一段階抽象度を上げると、「ハイブリッド車」。もう一段階抽象度を上げると「自動車」(この間に「セダン」を入れてもOK)。次は「乗り物」というのが、具体と抽象の関係です。以前、コラムでこのようなことを書きました。

「知識・情報・経験を組み合わせて成功法則を導き出せるのは、抽象化能力の高さがあってこそです。 また、そこから実行に移すには徹底的な具体化能力が求められます。ビジネスモデルは抽象的なものですが、実行計画は具体そのものです。
料理も同じく、たとえば献立の組み立ての構想は抽象であり、個々のメニューの調理は具体です。一流の料理人は両方できますが、二流三流の料理人は調理しかできないのです。
起業家や経営者はグランドデザイン(戦略)を描き、それを実務に落とし込む。そしてそれらを実践するのが一般従業員であるように、成功者は具体と抽象を往復する能力が高く、貧しい人のほとんどは具体の世界でしか生きていない。
だから凡人は具体的な指示を与えられないと動けないため、たとえば「これ任せるから好きにやって」と言われたら混乱しますが、成功する人は嬉々として取り組むものです。

という文章です。 ゆえに圧倒的多数がサラリーマンで、圧倒的少数が起業家なわけで、「具体と抽象の往復」がどれほど重要であるか理解できると思います(むろんサラリーマンであっても抽象的思考力の高い人はたくさんいますので念のため)。

「抽象化能力が低い」人は仕事ができない

ちなみに起業家というのは、自分で市場ニーズを読み解き商品を企画し作って値段をつけて販売するという、いわゆる一連のビジネスコンセプトを練り上げられる人のことです。 なので請負業務・相談業務・定型業務が主体のフリーランスのことではありません。
こういう仕事はほとんど具体であり、抽象的な思考は不要だからです(ただしコンサルタントやデザイナー、コピーライターや建築家などクリエイティブな職業は、極めて高度な抽象的思考が求められる仕事です)。
そして、「いや、こういう人もいる」「データで示せ」などという人は、抽象化能力が極めて低い、具体の世界で生きている人です。なぜなら、例外に引きずられて一般化できないし、定性情報から傾向を抽出できないことを意味するからです。
そしてこの具体と抽象というのはマジックミラー(一方からは見えるが、反対からは見えない)の側面を持っていて、抽象的思考能力が高い人は具体の世界も見えますが、抽象化能力が低い人、つまり具体の世界で生きる人には、抽象化の世界が見えません。もちろん、見えてないことにも気が付きません。

話が通じないのは「住んでいる世界が違う」から

むろんこれは程度問題でイチかゼロかという話ではありませんが、端的に言うと「住んでいる世界が違う」ということ。 先ほど、「一流の料理人は両方できるが、そうでない料理人は調理しかできない」というのもそういうことです。 だから「理解できないのは書き手が悪いからだ」というのは半分正解だとしても、半分は不正解。
なぜなら、具体の世界でしか生きていないために抽象的な話が「わからない」わけで、こういう人には何を提示しても理解できないからです。 だから議論がかみ合わない。というか議論にすらならない。自分が見えていないことにすら気づいていないので当然です。そしてそのまま生涯を終える人がほとんどです。
そして具体の世界の住人はここで「お前が何を言っているのかわからない」「詭弁だ」という感想を持ちます。 彼らには富裕層関連の話を読んでも時間の無駄ですので、他をあたった方がご本人のためかと思いますが、なぜか読むんですよね…。
もしあなたが情報発信者で、同様の批判を受けたとしたら、時間の無駄ですのでスルーがおススメです。なぜなら、彼らは理解しようとしないどころか相手の揚げ足を取ることでしか自分を正当化できないので、永遠に平行線だからです。
丁寧に説明しても否定するし、「判断は自由ですよ」といってもさらに絡んでくる粘着性を持つのもこういう人です。

数字では見えないものを見る

先ほど「データで示せ。でないと信用できない」というクレーム(イチャモン?笑)が来たという話をしましたが、思考パターンや行動パターンから教訓を抽出する作業は、実は定性データの分析の方が適しているというのが私の実感です。
なぜなら「なぜそうしたのか」という、判断の根拠となった行動原理を想像しやすいからです。 たとえば「富裕層の8割は長財布を持っている」というデータがあったとして、では自分も長財布に変えれば富裕層になるかというと、なるはずがない、というのはおわかりいただけると思います。
「きれいにお札を並べ、レシートやカード類も整理しているから」というのも理由としては不十分で、「金銭管理をきちんとする習慣ゆえに、それが生活の全方位に発揮され、ついでに財布の中も整理されている」わけで、長財布は結果に過ぎないのです。
だから結果を見たところでほとんど意味はなく、「なぜそうしたか」を探る作業が必要で、それには個別個別の人をじっくり観察する必要があります。
それに、定量化すると平均化されやすいですから、突出した人の突出した傾向が埋もれやすくなります。突出しているがゆえに例外として切り捨てられることもあるでしょう。 記事の通り昨今は現金も財布も持ち歩かない富裕層が増えていますが、全体としては少数派です。
しかしそれが、将来の多数派になる可能性を秘めているとしたら? マスマーケティングに携わるマーケターならともかく、定量分析から得られる示唆にはほとんど意味がないというのが、これまで数百人もの成功者と、数千人もの(?覚えていませんが)一般人を見てきた感想です。

プライド(だけ)が高く自分が賢いと信じたい人は「ネット上のあおり屋」になりやすい

そして冒頭に戻りますが、この人、実社会で承認欲求が満たされていない典型的な人だなという印象です。こういう人は結構多くて、ネットの世界では頻繁に出没します。 特にSNSは承認欲求を満たすのに格好のツールで、相手を落とすと相対的に自分の立場が上がるという壮大なカン違いを起こしやすい。
そして、相手が悪い、書き手が悪いと主張し、自分が能無しではない、相手よりも賢いことを確認したくなる。 それで相手の主張を認めると、どこか自分が議論に負けたかのように感じ、自尊心が保てないわけです。
だから言われっぱなしでは気が済まず、延々と絡み続ける粘着質になるのもこのタイプです。「ネット上のあおり屋」ですね。相手が車から降りて土下座するまで突っ込みまくるという…笑
だから自分が「読めていない」ことを絶対に認めるはずもなく、書き手が悪いの一点張り。 歩み寄る余地を見出せないのはクリエイティビティがない証拠で、だから稼ぎが悪いのです。
そしてそういう発想であるがゆえに、本人が稼げていないということにも気づいていない。なぜ稼ぎが悪いとわかるか?先ほど述べたように、本人は抽象化能力が低く、抽象的な思考が極端に苦手な人だからです。
文面からも完全に具体の世界の住人で、まったくお金のにおいがしない。 こういう人は稼ぐ仕組みを考えることも苦手なので、単純業務しかできません。だから当人の職業が「FP」なのでしょう。
そしてFPなのに富裕層の顧客がいない、接点がないというのも、一連のツイートを見ればよくわかります。だから余計に「データ示せ」などと言うのでしょう。

まさに「Garbage in Garbage out」

それで思い出しました「Garbage in Garbage out」。これはどういう意味かというと、「ゴミを入れればゴミが出てくる」というデータ分析の世界における慣用句なのですが、残念な頭脳にはどんな情報を入れても残念な結果しか出てこないという意味でもあります。
むろん、ご本人は自分の生き方に納得されているのでしょうから、それはそれで自由。ただ、安易に他人に絡むような迷惑行為はやめていただきたいなあと思います。 結局「情報」というのは批判することには意味がなく、その中身を自分なりに咀嚼し、自分の生活に取り入れようという姿勢を持たなければ、単なる時間の浪費です。
むろん、たとえば山本一郎さんのように、批判コラムがお金になるという職業の人は別です。それと彼の場合は誹謗中傷などではなく、クスっと笑えるシニカルさがあるのが特徴で、ご本人はリアルでは非常に謙虚な人です。 この記事、修正して何かの本で使えそうです^

具体と抽象を往復するには?

で、大事なのはここからで、ではどうすれば「具体と抽象の往復ができるようになるか」です。 コツは「要するに、たとえば」をつねに意識しながら情報や事象を観察することです。「要するに」は抽象化する作業であり、「たとえば」はそれを具体化する作業なので、これをつねに繰り返すことで、抽象の世界に入れます。
あとは程度問題で、たとえばこのコラムの着想の原点となった「具体と抽象」という著書がある細谷功氏。「地頭力を鍛える」で有名ですが、この人の抽象化能力はさすがとしか言いようがなく、私はまだまだ追いつけていません。
ほかにも山口揚平や落合陽一さんもすごくて、私より若いですが、抽象化能力は私よりも上です。なので彼らの書籍はとても参考になります。
image by : shutterstock
午堂登紀雄この著者の記事一覧 
フリー・キャピタリストとは、時代を洞察し、自分の労働力や居住地に依存しないマルチな収入源を作り、国家や企業のリスクからフリーとなった人です。どんな状況でも自分と家族を守れる、頭の使い方・考え方・具体的方法論を紹介。金融・経済情勢の読み方、恐慌・財政破綻からの回避方法。マネタイズ手段としての資産運用、パソコン1台で稼げるネットビジネス、コンテンツを生み出し稼ぐ方法。将来需要が高まるビジネススキルとその高め方。思考回路を変えるのに役立つ書籍や海外情勢など、激動の時代に必要な情報をお届けします。
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2020年8月23日日曜日

シアトル酋長の手紙

この手紙は、2006年1月に、カナダ在住日本人建築士小林徹様から頂戴いたものです。小林さんがご自分で翻訳されました。
大地は誰のものか、本当に考えさせられます。
理想通りにはいかないとしても、原点を認識しておく必要があると思います。

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1854年に、時のアメリカ大統領(第14代の Franklin Pierceでしょうか) が、インディアンのシアトル酋長に「土地を売って欲しい、そのかわり、インディアン保留地を約束する」という申し出をしたのですが、それに答えて、酋長は返事を書きます。「大地はかけがえのないもの 」だと。
その意味するところ、アメリカの自然環境を考える上での原点ともいえるほど、美しく、深遠な文章です。ご参考までに、コピー致しました。
私は、21世紀の住環境を考える「心経」とでもいうべきものだと感じ、ここに全文を翻訳してみることにしました。地球規模での環境破壊が起こり、人々がようやく気付き始めた現在ならともかく、150年近く前の話ですから、この酋長の洞察力と、心の深みが、お分かりいただけると思います。
ただ、翻訳するにあたって、ひろく一般性をもたせるため、あえて原文のWhite man を「あんた方」に、Red man あるいはIndianを「わしら」と、読み換え、全体を詩文の感じにととのえました。
また、あまたの風雪を経た矍鑠たる老人が、遠く地平を眺めながら、さびのある声で、ゆっくりと語っていく姿を想像しながら意訳していきましたので、結果として「手紙」というより「語り」という雰囲気になってしまいましたが、このスタイルの方が、酋長が謂わんとしたその気持ちそのものに、より近づけたような気がしております。
1854年の話ですが、温室効果、オゾン層の破壊など、地球規模での環境破壊は、結局、この酋長の予言どおりになってしまった感があります。
最後の、The end of living and the beginning of survival.すなわち、「生きることの終わりであり、生き残ることの始まりである」という文は、胸に迫ってきます。

大地はかけがえのないもの
空を、大地の暖かさを、売り買いすることができるんじゃと?
不思議な考えじゃ。わしらには、とーんと見当もつかん。
わしらが、空気の爽やかさや、水のきらめきの所有者じゃあなかろうに、
どうしてあんた方は、それを買うことができるんじゃろ?
この大地のものはみーんな、わしらの種族にとって神聖なのじゃ。
輝く松葉の一つ一つ、海辺の砂の一粒一粒、暗い森の中に漂う霧、森の空き地、
羽音をたてる虫の一匹一匹は、わしら種族の、記憶と経験の中で神聖なのじゃ。
木の中を流れる樹液は、わしらの記憶を運んでおる。
どうやら、あんた方の死者は、星々の間をさまよううちに、生まれた国を忘れてしまうようじゃな。
じゃが、わしらの死者は、この美しい大地を忘れることはない。
それは、わしらの母だからじゃ。
わしらは大地の一部じゃし、大地は、わしらの一部なんじゃ。
香しい花は、わしらの姉妹。鹿や馬や大鷲は、わしらの兄弟じゃ。
岩の頂き、草地に宿る露、野の馬の体温、そして人。
みーんな、同じ家族なんじゃ。
じゃから、あんた方の長(おさ)が、わしらの土地を買いたいといってきたとき、
あんた方は、わしらに、大それたことを望んできたものじゃ。
あんた方は、わしらが気持ちよーく生きられるように、保留地を提供するという。
それは、つまり、あんた方が、わしらの父となり、わしらは、あんた方の子供となるということじゃろう。
じゃから、わしらは、わしらの土地を買いたいという、あんた方の申し出を、よーく考えてみよう。
しかし、それは易しいことではありゃせん。
この大地は、わしらにとって神聖じゃからな。
この、小川や河を流れ、輝いている水は、ただの水ではないんじゃ。
それは、わしらの先祖の血じゃ。
もし、わしらが、あんた方に、この土地を売るんなら、
あんた方は、それが神聖であることを覚えておかねばならん。
また、あんた方は子供達に、それが神聖であることを、そして、
湖の澄んだ水面のかすかなきらめきが、わしら種族の、生命のできごとや記憶を伝えていることを、
教えねばならん。
水のせせらぎは、わしらの父の、そのまた父の、声なんじゃ。
河は、わしらの兄弟じゃ。河は、わしらの渇きを癒す。
河は、わしらのカヌーを運び、わしらの子供たちを養う。
もし、わしらが、わしらの土地を、あんた方に売るんなら、あんた方は覚えておかねばならん。
あんた方は、あんた方の子供達に教えねばならん。
河は、わしらの兄弟であることをな。あんた方の兄弟であることをな。そして、
これからは、あんた方が兄弟に与えるのと同じ思いやりを、河に与えねばならんということをな。
わしらは、あんた方が、わしらの生き方を理解しないのを知っておる。
あんた方にとって、一片の土地は、その隣の一片の土地と同じなんじゃろ。
夜に訪れた見知らぬ人じゃから、
必要なものは、なんでも土地から奪っていくのじゃ。
大地は、あんた方の兄弟ではありゃせんのじゃ。敵なんじゃ。
征服したら、突き進むだけじゃて。
あんた方は、あんた方の父達の墓をあとに去っていく。かまいはせんのじゃ。
あんた方は、あんた方の子供達から土地を奪う。かまいはせんのじゃよ。
あんた方の父達の墓や、子供達の生得権は、忘れられてしまっておる。
あんた方は、母なる大地、兄弟である空を、買ったり、盗んだり、
羊や、光った首飾りのように、
売ることができるもののように、扱っておるんじゃ。
あんた方の食欲は、大地を貪り食い、荒れ地だけを、残していくんじゃ。
どうもわからん。
わしらのやり方は、あんた方のやり方とは違う。
あんた方の町は、わしらの目には痛いんじゃ。
じゃがそれは、恐らく、わしらが野蛮人で、理解しないからじゃろう。
あんた方の町には、静かな場所などない。
春に、木が葉っぱを広げる音を聞く、場所がない。
かさこそという虫の羽音を聞く、場所がないんじゃ。
恐らく、わしが野蛮人で、理解しないからじゃろう。
騒がしい音は、耳を侮辱するようじゃ。
もし、人が夜、夜鷹の寂しげな鳴き声や、
池のまわりの蛙の合唱を聞くことができんとは、
いったいどんな生活なんじゃろう。
わしは野蛮人じゃ。理解できん。
わしらは、池の水面をかすめていく風の、やわらかい音を好む。
昼の雨に清められた風、ほのかに松の香をはこぶ、風の薫りを、好むものじゃ。
わしらにとって、空気はかけがえのないもの。
すべてのものは、同じ息を、共有しているからじゃ。
獣、木、人間、彼等はすべて、同じ息を分け合っておる。
あんた方は、あんた方が呼吸している空気に、気付いてはおらんようじゃ。
まるで、何日も死にかけている人のように、臭気に麻痺しておる。
しかし、もし、わしらがあんた方に、わしらの土地を売るんなら、
空気はわしらにとって、かけがえのないものだということを、覚えておかねばならん。
空気は、それが支えているすべての生命と、その精神を分け合っているのじゃ。
風は、わしらの祖父に最初の息を与え、彼の最後の吐息を受け取った。
もし、わしらがあんた方に、わしらの土地を売るんなら、
あんた方は、それを隔離して、神聖に保っておかねばならん。
たとえ、あんた方でも、草地の花の、甘い香を含んだ風を、味わえる場所としてな。
そこで、わしらは、わしらの土地を買いたいという、あんた方の申し出を考えてみよう。
もし、わしらが、その申し出を受け入れるんなら、
わしは条件を一つ付けるつもりじゃ。
あんた方は、この土地の獣を、兄弟として扱わねばならないという条件をな。
わしは野蛮人じゃから、ほかの扱い方を知らん。
わしは、無数のバッファローが、あんた方によって、通りがかりの汽車の窓から、鉄砲で打たれ、
腐った死骸となって、大草原に打ち捨てられているのを見てきた。
わしは野蛮人じゃから、どうして、煙をはく鉄の馬の方が、
わしらが生きるためにだけ殺すバッファローより、もっと大事なのか、わからない。
獣がいなかったら、人はいったいなんなのか?
もし、すべての獣がいなくなったら、
人は、大きな心の孤独に苛まれて、死んでいくじゃろう。
獣たちに起こることはなんでも、やがては人の上にも起こる。
すべてのものは繋がっているのじゃ。
あんた方は、あんた方の子供達に教えねばならん。
足の下の土地は、あんた方の祖父たちの灰であることをな。
彼等が土地を敬うように、あんた方の子供達に告げるが良い。
大地は、わしらの親戚の命で、満たされているんじゃと。
わしらが、わしらの子供達に教えてきたことを、あんた方の子供達に教えるが良い。
大地は、わしらの母なんじゃと。
大地にふりかかることは何でも、大地の息子たちの上に、ふりかかるのじゃ。
もし、人が地に唾を吐けば、彼等は、彼等自身に唾を吐きかけているんじゃ。
これが、わしらが知っていることじゃ。
大地は人に属さない。人が大地に属しているのじゃ。
これが、わしらが知っていることなんじゃ。
すべてのものは、家族を一つにする血のように、つながっておる。
大地にふりかかることは何であれ、大地の息子たちの上にふりかかるのじゃ。
人が生命の織物を織っていたのではない。
人は単なる織物の中の、一筋の糸にしか過ぎん。
人が織物にすることは何であれ、自分自身にすることなんじゃ。
その神が、まるで友人どうしのように、共に歩き、共に話しをするという
あんた方でさえ、共通の運命からは逃れられんのじゃ。
結局、わしらは兄弟かも知れんがな。
いずれ、わかるじゃろう。
わしらが今、知っていることは一つ。
それは、あんた方は、いつかきっと、わしらの神は、
同じ神であったことを発見するじゃろうということじゃ。
今、あんた方は、わしらの土地を所有したいと思っているように、
神を所有していると考えているかも知れんが、それは、出来んことじゃ。
彼は人類の神なのじゃ。
じゃから、彼の慈悲は、わしらにも、あんた方に対しても、おんなじなんじゃ。
大地は、神にとって、かけがえのないものじゃ。
じゃから、大地を傷めるものは、その創造者の上に、侮りを積み上げておるんじゃ。
あんた方も、やがては死ぬ。おそらくは、他のすべての種族よりも早くな。
あんた方の寝床を汚しつづけ、ある夜、あんた方の汚物で息がつまるじゃろう。
だがな、滅び去る時、あんた方は、明るく輝くじゃろう。
あんた方を、この世にもたらし、何か特殊な目的のために、あんた方に、この地の支配権を与え、
わしらを支配する権利を与えた、その神の力に焼かれてな。
その運命は、わしらには神秘じゃ。
バッファローが殺されたとき、野生の馬が飼いならされたとき、
森の秘密の場所が、たくさんの人の匂いで満たされたとき、
豊かな丘の眺めが、電話線で損なわれたとき、
わしらは、分からなくなってしまうのじゃ。
あの木の茂みはどこへ行った。消えてしまったぞ。
イーグルはどこへ行った。もう、おらん。
生きることが終わり、生き残ることの始まりじゃ。

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2020年7月28日火曜日

日本はもはや後進国であると認める勇気を持とう:孫正義

Newsweek 日本語版から。「加谷珪一 経済ニュース解説」より
2019年08月27日(火)

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<日本は「かつて豊かだった」のではなく、もともと貧しかったのだ。事実、日本の労働生産性の順位はこの50年間ほとんど変わっていない。昔から傑出した技術大国であったという自らの「勘違い」に向き合わねば、日本経済はトンネルを抜けることはできない>


「日本はAI後進国」「衰退産業にしがみついている」「戦略は先輩が作ったものの焼き直しばかり」。ソフトバンクグループの孫正義社長による手厳しい発言が話題となっている。多くの人が薄々、感じている内容ではあるが、公の場では慎重に言葉を選んできた孫氏の性格を考えると、一連の発言は異例であり、事態が深刻であることをうかがわせる。
実際、日本は多くの面で先進国から脱落しており、ここから再度、上位を目指すのはかなり難しい状況にある。私たちには、日本はもはや後進国になったことを認める勇気が必要かもしれない。

数字で見ると今の日本は惨憺たる状況
このところ日本社会が急速に貧しくなっていることは、多くの人が自覚しているはずだが、一連の状況はすべて数字に反映されている。
日本の労働生産性は先進各国で最下位(日本生産性本部)となっており、世界競争力ランキングは30位と1997年以降では最低となっている(IMD)。平均賃金はOECD加盟35カ国中18位でしかなく、相対的貧困率は38カ国中27位、教育に対する公的支出のGDP比は43カ国中40位、年金の所得代替率は50カ国中41位、障害者への公的支出のGDP費は37カ国中32位、失業に対する公的支出のGDP比は34カ国中31位(いずれもOECD)など、これでもかというくらいひどい有様だ。
日本はかつて豊かな国だったが、近年は競争力の低下や人口減少によって経済力が低下しているというのが一般的なイメージかもしれない。だが、現実は違う。
先ほど、日本の労働生産性は先進各国で最下位であると述べたが、実はこの順位は50年間ほとんど変わっていない。日本経済がバブル化した1980年代には、各国との生産性の差が多少縮まったものの、基本的な状況に変化はなく、ずっと前から日本の生産性は低いままだ。1人あたりのGDP(国内総生産)が世界2位になったこともあるが、それはほんの一瞬に過ぎない。
日本が輸出大国であるという話も、過大評価されている面がある。
2017年における世界輸出に占める日本のシェアは3.8%しかなく、1位の中国(10.6%)、2位の米国(10.2%)、3位のドイツ(7.7%)と比較するとかなり小さい。中国は今や世界の工場なので、輸出シェアが大きいのは当然かもしれないが、実は米国も輸出大国であることが分かる。驚くべきなのはドイツで、GDPの大きさが日本より2割小さいにもかかわらず、輸出の絶対量が日本の2倍以上もある。

日本は「かつて豊かだった」のではない

ドイツは過去40年間、輸出における世界シェアをほぼ同じ水準でキープしているが、日本はそうではない。1960年代における日本の輸出シェアはかなり低く、まだ「安かろう悪かろう」のイメージを引きずっていた。1970年代からシェアの上昇が始まり、1980年代には一時、ドイツに肉薄したものの、その後は一貫してシェアを落とし続けている。
生産性や輸出シェアの数字を検証すると、ひとつの特長が浮かび上がってくる。
日本は1960年代までは敗戦の影響を色濃く残しており、社会は本当に貧しかった。しかしオイルショックを経て、70年代の後半から日本は徐々に豊かになり、バブル期には一時、欧米各国に近づくかに見えたが、そこが日本のピークであった。
 
日本は「昔、豊かだったが、今、貧しくなった」のではなく、日本はもともと貧しく、80年代に豊かになりかかったものの「再び貧しい時代に戻りつつある」というのが正しい認識といってよいだろう。
筆者はことさらに日本を貶めたいわけではないが、状況の認識を誤ってしまうと、処方箋も間違ったものになってしまう。日本は昔から貧しかったという厳しい現実を直視し、正面から対峙することこそが、本当に国を愛する心だと筆者は考えている。
冒頭でも紹介した通り、孫氏は、近年の日本企業について「戦略は先輩が作ったものの焼き直しばかり」であると指摘しているわけだが、以前の日本企業は違ったのだろうか。これについてもそうとは言い切れない部分がある。

日本企業の本当の強みは何か?

パナソニックという会社は、かつて松下電器産業という社名だったが、昭和の時代には、よく「マネシタ(真似した)電器」と揶揄されていた。トヨタも今でこそ、レクサスといったブランド商品を出せるようになったが、米ゼネラル・モーターズの自動車を参考に製品の開発を続けてきたのは有名な話である。
パナソニックに限らず、日本企業の多くは、欧米企業がヒット商品を出すと、すぐにそれを真似して(今の言葉で言えばパクって)、より安い価格の製品を出すというのが定番商法だった。マネシタ電器とはこれを皮肉った言葉だが、単にモノマネがダメだというニュアンスで、この言葉が使われていたわけではないことに留意する必要がある。
「日本人にはイノベーティブな製品を発明する能力はないが、既存製品を改良する優れた技能があり、それが日本人のパワーだ」とポジティブに捉える日本人は少なくなかった。当時、安値販売に邁進する日本メーカーの影響で、多くの欧米企業が倒産に追い込まれたが、国内世論は「安くて良いモノを出す企業が勝つのは当然だ」という雰囲気であり、路頭に迷う外国企業の社員について配慮すべきだという声や、顧客はよいモノに対して高いお金を払うべきだといった議論はほぼ皆無であった。
つまり、マネシタ電器という言葉は100%悪い意味ではなく、賢くて商売上手であるというニュアンスが含まれており、むしろ、パクり商法で利益を上げることこそが、弱小国家が生き残る道であるとポジティブに評価していたのだ。
だが、バブル期を経て、社会が多少、豊かになり、日本人は自らの技術力を過信し、昔から傑出した技術大国であったという錯覚を持つようになってしまった。この基本認識の違いが、現状維持のバイアスを強く発揮することになり、結果として孫氏が指摘するように「衰退産業ばかりにしがみつく」結果をもたらしている。
もはや投資会社に変貌しているソフトバンクに対しては、自らは技術を開発しないという点で、常に虚業であるとの批判が寄せられてきた。だが、モノマネに代表されるように、自身ではイノベーティブな開発はしないものの、アイデアと狡賢さ、そして行動力で勝負するのが日本企業の強みであるならば、実はソフトバンクというのは、典型的な日本企業とみなすこともできる。
日本は後進国に転落したという事実を謙虚に受け止め、これを逆手に取って、もっと狡猾に立ち回る企業が増えてくれば、袋小路に入った日本経済にも光明が差してくるのではないだろうか。
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2020年7月26日日曜日

One for all. All for one. の真意!

「その真意が解ったわ!」と、素敵な小文を頂戴しました。
昨年11月、賛助会員の山本儀子さんが蓼科にお連れくださったY夫人から、
誰もがご存知の、サッカーでフィーバーした
「One for all. All for one.」
この真意、私も知りませんでした。

昨年11月の内容は「蓼科だより・632号」の
地に根ざした、地が生み出す物、すべてがテロワールなのですね。
に掲載しましたが、ここに再掲いたします。

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One for all. All for one.

 昨秋、私達はまだコロナも知らず、ラグビーのワールドカップに沸き上がって
いました。にわかファンの私も、TVの前で拳を突き上げて応援したものです。
その頃”One for all, All for one”が、よく「一人は皆のために、皆は一人のために」
訳されていて、何かおかしいな~と感じていました。それが、この自粛生活の
間に家で偶々観た古い映画で、解消したのです! 
 あれっ?と思ったのは「仮面の男」を観ていた時です。そう、幼き頃手に汗握
って読んだあの「鉄仮面」。1988年のアメリカ映画で、アレクサンドル・デュマ
作「ダルタニアン物語」に基づくルイ14世鉄仮面伝説。若きデカプリオがルイ王
と双子の弟フィリップの二役を演じます。今は年老いた三銃士がダルタニアン
と結託して、仮面を被せられ幽閉されたフィリップと王をすり替えようと企みま
す。いざバスチーユに潜入せんとするとき、4人は円になって剣先を床で合わせ、
誓うではありませんか、“One for all, All for one 私は手を叩いて喜びました、
そう、これはラグビーの言葉ではなく、騎士の誓いの言葉だったのだわ! そし
直感的に感じました、「一人は皆のために、皆は一つの目的のために」だわ!
と。皆の目的はただ一つ!!
 それを確認したくてすぐにネットで調べたところ、ありました、ありました。直感は当たりました。「皆は一つの目的のために!」が本来の意味だったのです。
 これはもっと古くからある言葉で、30年戦争の発端となった「プラハ窓外放出事件」(ハプスブルク家のカトリック政策に怒ったプロテスタント系貴族が、皇帝代理人3人を城の窓から投げ落とした)の時にも、貴族達はこの言葉をラテン語で誓い合った、と記録にあるそうです。
 わかってすっきりした私は、又ある日、コロナの閉塞感を愉快な映画でも見て
吹き飛ばそうと、ジャック・レモン主演の「アパートの鍵貸します」を観ていま
した。懐かしのビリー・ワイルダー監督で、アカデミー賞5部門を取ったコメ
ディーです。保険会社の平社員が上役3人の浮気の手助けに自分のアパートの鍵
を貸すバイトをする。その浮気がバレそうになった3人、役員室で知恵を出し合
い、隠し通そうと誓うではありませんか、“One for all, All for oneと!! 
私は勿論、拍手喝采して大喜びしました。
                                  Y
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「蓼科だより・632号」より
地に根ざした、地が生み出す物、すべてがテロワールなのですね。

 先日は色々とご案内頂き、信州の食を楽しませていただき、ありがと
うございました。
私は2日目のイタリアンの野菜の種類の豊富さ、おいしさ、

に特に感銘を受けました。
 安江様がそのように、地産地消に関連しておられるのも存じませんで、ただ
儀子さんにくっついて信州の秋を楽しみに伺った次第です。失礼いたしました。
添付して頂いた松尾雅彦様のレポートは、大変おもしろく読ませていただきま
した。実は、松尾雅彦様の大学からの友人で、雅彦様の次のカルビーの社長をな
さったのは、私の中学校時代の友人のご主人、中田康雄(スマート・テロワール
協会会長)さんなのです。
 それで興味を引かれ、小さい字を読んでみますと、まず目に入ったのが、

「フランスの一番美しい村」、それから「テロワール」。
私は今年の7月に一月間、パリに滞在していましたが、その間に、アルザスに
あるフランスの一番美しい村をいくつか訪ねてきました。そしてフランスの
(いや、欧州の)田舎の小さな村はこんなに美しく魅力的で心和むのに、日本の
田舎がどうも一つ魅力に欠けるのはなぜだろう、と考えさせられました。
 その続きは長くなりますので、お話はまた次にお会いした時の楽しみに取って
おくことにしましょう。
 もう一つ、「テロワール」。これは私はワインやチーズを語るときしか使って
いませんでした。それが日本の地方再生の言葉として出てくることに、そうか!と
感銘いたしました。そうですよね、地に根ざした、地が生み出す物、すべてが
テロワールなのですね。 
                                  Y
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