2019年11月16日土曜日

Tabooに挑む ―世界の常識と日本の良識


チャンプ (藤沢市湘南台:代表山本儀子) の会員梅澤正巳様より
素敵な論文を頂きました。難しい言葉や表現が使われていますが、
読んでみると判り易いです。
赤文字は編者が変換したものです。
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  著者梅澤正巳氏紹介:1941年東京生まれ。ソニーと半導体販売の合弁企業現UKCHD
を設立。一部上場達成、副社長、最高顧問を経て隠退。以後、経営コンサルティング会
QJ()を設立し、75才まで代表を務めた。この論文は隠退の際、後輩経営者のため
20173月に書かれた。チャンプ(藤沢市湘南台:代表山本儀子)会員。(安江髙亮記)

Tabooに挑む
―世界の常識と日本の良識を考える―

戦争に明け暮れた20世紀が終わり、新世紀が始まって既に20年が経とうとしている。しかし、現下における世界の情勢は、永く人間社会を規定してきた常識や倫理を覆す兆候が強く現れ、其処では、わが国の戦後の良識とされてきた思考や行動も再考を迫られるのではと危ぶまれる程である。
そして、今年発せられた各国各首脳の年頭所感や実業界の領袖たちの観測に高揚感は見られず、寧ろ世界平和の側面では、宗教的信条の違いによる地域紛争や格差拡大に起因した「経済戦争」と云う火種によって、新たな冷戦への危機感が募り、当に世界には暗雲が立ち込めているかに観られるのである。
特に、世界がglobal化によって物理的にも時間的にも狭隘になり、緊密な連携が図られねば為らないとき、現実は其の真逆の方向へ走っているかに思える。自国優先主義やpopulismそして権威主義国家の台頭が其の現れである。
このような不安定な状況を反映してであろう「歴史における相似性」と言うことが、最近よく論じられる。世の中の情勢が100年前の第一次世界大戦の1910年代、あるいは70年前の第二次世界大戦直前の1940年代初頭に似ているからである。確かに、歴史においては全く同じ状況を再現することは無いであろう。
しかし、同じような状況は繰り返されるのである。あの両大戦前夜の悪夢の情景が、再び立ち現れていると世界の識見者は観ているのである。
一方、わが国の世情は、如何であろうか。世界の混沌と混迷は、他所事と捉えているのであろうか、昨日の延長に今日が、今日の先に当然明日があるのだと、極めて平穏無事に過ぎるものと、思い定めているかに見える。
その筈である、先の戦争が全面降伏であったにも拘らず、敗戦後の日本は真に幸運であった。独逸のように国を分断されることが無く、戦時賠償に国民が疲弊することも無く、専ら自らの復興に邁進することが出来た。米国の世界防衛戦略に基づいた政策が、日本の復興計画を、軍事出費を伴わない民需産業への特化を許したからである。お蔭で日本は、consumer electronics技術を梃子に経済発展を遂げ、一躍経済大国となった。戦時中の痛みは激烈であったが、戦後の痛みはEurope諸国に比べ、格段に大きくは無かったのである。しかし、其の与えられた「平和の代償」は、今現在に至ってbody blowとなってジワジワと効いて来ているのではないか。
確かに、戦後復興において我々日本人は懸命に働き、奇跡的な高度成長を成し遂げた。しかし、其れは米国によって設えられた安全保障体制の枠組みの中で、自国の安全を他国に委ね、自らは経済活動に専念して成し遂げた結果であった。
国の経済が安定し成長することは、国民の生活が豊かなることであり、何より望ましいことである。だが、自分の国を自分で守れない、守らない国というstyleはあくまでも非常時に許される姿である。其の仮の姿を何時まで続けていくのであろうか。世界の先進国の中で、そのような国は絶無なのである(平和国家として引き合いに出されるSwissは、相応の軍備を持ち、徴兵制を備えている)。
今、期せずして憲法改正問題が浮上している。そして、Marxの唯物史観で育ったこの国の進歩的文化人と云われる人たちは、挙って其れに強い拒絶反応を示している。戦争の悲惨さを強く身体に刻み、記憶に留めている超高齢者も同様である。おそらく、戦中戦後の心理的、物理的傷害をトラウマとして引きずっている所為であろう。
しかし戦争は、いずれの国、国民にとっても悲惨なのである。敗戦国であった独逸や日本のみでなく、戦勝国である英国、仏蘭西の欧州諸国、それに米国においてすら物心両面において大きな傷跡を残したことに変わりは無かったのである。
国連の下部機関としての世界銀行が、当初戦後世界の復興を目指し、安定と経済支援を目的として設立されたことによっても、戦争被害が如何に甚大で深刻であったかを類推できるのではないか。
そして2019年、日本で課題とされるのは、恒久平和を規定した憲法の改正であり、焦点は第9条である。
だが、70数年を経て、現下の世界はparadigm shiftの最中にある。
中国を筆頭に発展途上国は急速な成長を遂げ、勢いのある新興国となって先進国を脅かしている。科学技術の進歩は、政治や社会制度の改変を待つことなく、様々な枠組みに綻びを齎している(其の状況は、戦争の危機を表現するThucydidesの罠に準えられている)。このspeed社会の潮流に乗り遅れることは、即国際社会の競争からの脱落に繋がりかねない。70年の時間の経過は、急激であったからである。
現下の日本国憲法は時限立法的色彩が濃い、真の自主独立を表明するのであれば早晩、其れに相応しい憲法を制定することが、自国の独立(自分の責任範囲は、先ず自分で始末をする)を証明する上でも必須であり、それがまた同盟諸国からも促されているのではないか。
何故なら前述のように、日本社会の発展は、米国の庇護の下にAsiaの中で産業化にいち早く成功した先行者利益に他ならないのであり、最早自分本位な平和主義を掲げるだけでは、他国から信頼を得て、尊敬を勝ち取ることは叶わないのである。もし、一国平和主義が罷り通ると信じているなら、其れは余りにも幼稚でnaïveに過ぎる考えではないか。戦争は誰もが忌み嫌うことであり、その中で、一国平和主義を主張し殻に閉じ篭ることは、他国から観たとき、他人の犠牲(他国の若者に戦いを委ね、血を流させる)の上に成り立つ平和であり、偽善そのものと写るであろう。其れは論理の必然であり、Common-senseであろう。
そして、其の現実を知らしめる責任は、かの高度成長期に企業戦士として活躍し、政治や社会の論理を語ることを後回しにして、経済活動に専心していた我々高齢者に課せられているのではないか。
日本では今まで、仲間内で政治と宗教を語ることを好まず、暗に禁忌して来た。
親しい間柄に、波風を立てないための配慮があってのことであろう。
しかし、今世界の情勢は、大きく変わりつつあり、仲間同士の安寧だけを良しとする時機ではない、寧ろ積極的に「政治のこと」を話題とする局面を迎えているのではないか。表題を「Tabooに挑む」としたのは其の意図を表したものである。
今求められるのは「世界的な視野」であり「自国の立ち位置の明確化」である。
国際秩序の体系は、複雑である。経済を主体とした「利益の体系」だけではなく、善悪(正義)を規定する「価値の体系」があり、何よりも重い「力の体系=軍事」によって成り立っている。其れが国際社会の全体系であり、それをオブラートに包むことなく、真正面から見据え、日本をこれから支える者たちに、現実として開示することが、求められるのではないか。古いparadigmが終焉を迎え、新しいgameを始めるには、そのための知的な準備が必要だからである。
それでは、知的な準備とは何か。先ず、己を知り、他者を知ることであろう。
己を知るとは、戦後に切り捨てられた日本の伝統文化の核心を再認識することである。何時かしら日本文化の特性であった「恥の文化」が消え、破廉恥な行いが公然と行われて平気な社会となった。お天道様に恥じない真っ当な生き方は、時代遅れとなり、利己主義が持て囃されている。かって、「潔さ」は他人の上に立つ者の基盤にあり、規範であった。今、leaderといわれる人たちから其の気概が、抜け落ちている。そして、骨身を惜しまず「渾身」を籠めて生きる姿勢こそが、この国の民の倫理的な美徳であった。戦後に失われた日本の文化は、世界に誇れる文化であった。
現下、政官界や企業で起こっている様々な不祥事は、知識経験やskillの不足によるものではない。人間として当然あるべき姿が追求されることなく、経済価値のみが優先された結果ではないか。それに加えて、上に諂い、下に媚びる組織人の習い性「忖度」が流行語となる程各界では不始末があった。日本人はこんなに卑しい民族ではなかった筈である。惟は明らかに戦後の「平和の代償」=負の遺産である。
日本が、世界の中で存在感を高めるための新しい価値基準は、寧ろ日本の伝統文化の中にこそ有るのではないか。日本人が信頼に耐える民族であることを立証することこそ、自己を主張して世界世論に影響力を与え得る唯一の方法手段ではないのか。
そして、世界の他者を理解するためには、偏見に囚われることなく、自分の立ち位置を歴史的文脈の中で知ること、つまりContextual intelligence(時代の文脈を読み取る知性)が無ければならない。pinpointで座標軸が定まらないままでは、考えや意見が、どんなに正解と見えても、長期の時間軸の上では評価に耐えることが出来ない、正体不明の相手では対話が成立しないからだ。
そして、Mirror imaging(相手も自分と同じように考えているに違いないという思い込み)を捨て去ることである。それは思考を停止させ、発展的な議論の障害となる。日本人が良かれと思っていることは、必ずしも其の通りに、他国の人が、理解して、受け入れるとは限らないのである。
さらに、Historical if(歴史的事象の中に、自分を投影して可能性の選択肢を探る)の思考である。今後の新たな方向性を見出すには、頑なな原理主義や教条主義的な拘りを棄て、歴史の現実の中に身を置いて、もし自分が其処にいたら如何にするかを自問することであろう。切実な擬似的体験をすることは、他人の経験を自分の経験とすることに繋がり、歴史認識を育むことになるからである。
何れも、激変する世界で生きるために視野を広げ、自分の立ち位置を明確にして意志を発進するための前提条件と言える。
終わりに、現代史から当該課題への示唆と為るであろう事例を検索してみた。
先に、世界趨勢の中における、日本人の立ち位置の捉え方と解釈が、甚だ幼稚でありNaïveであると言った。其れは、政治そのもの、あるいは政治家に対する我々の対応、評価にも繋がっていると思われるのである。政治は其の国民のlevelを写し、其の域を超えるものには為りえないと言われる。
そして、政治の世界は、よく魑魅魍魎の様態に例えられる、其れほど複雑怪奇だからであろう。当然、其処で活動する政治家も単純明快さと怜悧さだけで、遣り遂せる世界ではないのである。
其れなのに我々は、余りに理念型的な政治、政治家像を求めてはいないか
因みに、危機の時に名を残した世界の指導者は、皆な古狸で老獪であった。
第二次世界大戦時の英国の首相Churchillは、往時の国民に必ずしも真実を伝えただけではない。後にNobel文学賞を獲得する程の文才、rhetoricを駆使して、国難の時に英国民を鼓舞しNazisとの闘いを戦勝に導いた。
そして同時期の米国大統領Rooseveltは、「素晴らしき欺瞞」と呼ばれるpropagandaを用いて、混迷し分裂する国民を結束に導き、未曾有の世界大戦を収束させた。そして、これらは「noble Lie」と言われ、世界政治のinitiativeにおいては許容され、寧ろ賞賛されているのである。其れが、自分個人を益するための「嘘」ではなく、「国・公」のために付く嘘だからである。
この「大人の智慧」が、政治の世界では、必要なのだと思う。現実の世界は、理想郷ではなく、全てrealismで成り立っているからである。そして、其の「Noble Lie」を駆使することを許す寛容さは、我々成熟した人間が具有する特性と言わねばならず、尚且つ「大人のもてる智慧」を発進することが我々の責務ではないのか。しかし、其れは、難儀なことかもしれない。
我々が発信する環境や状況は複雑であり、いま今の事象をpinpointで見ても真偽の判別は難しいからである。そこで、一つの方法を提案したい。Extrapolation思考と言い、あらゆる兆しを、一時的なものとして観察するのでなく、一つの傾向線上に載せて考察する方法である。昔からの「時間の効用」の活用である。
其れによって、事態の進展、変化が明確になるからである。真偽は時間軸で観ることによって、始めて鮮明になる。そして、其れは我々の判断をより正解に導いてくれることになる。しかし、この思考方法は、若者には馴染まない、彼らは性急だからである。我々、超時間世代にして始めてもち得る思考である。
それ故、是非我々の「大人の智慧」を発揮して頂きたいのである。
そして、Be just and fear not. (正を踏んで怖れるなかれ)、惟は永遠の真理である。しかしこれも、現役の若者たちには中々出来ないことである。彼らは、仕事を成功に導き、生活を築き上げ、子供を育てる途中過程にあり、様々な「しがらみ」の中で生きねば為らない。
しかし、我々高齢者は「しがらみ」からは既に遠い。それ故、世を糾す発言は、我々に責務として負わされているのだと思う。幸い、自由民主主義体制は、脆弱ではあるが、皆が意識を一つにして支えて行けば、正常に反応する素晴らしいsystemである。絶対主義や権威主義に比べ、発言の機会は恵まれ、自由である。その上、憂国に根ざし、正鵠を射た発言は、公の場を得て真意を伝えられる可能性が高いのである。
さて、歴史を振り返ったとき、我々が問われるのは、何よりも生成というものに対する態度ではないか。過去という存在が無ければ、ほとんど現在というものが無い程、人間の存在は過去に多くのものを負っていると云われる。
そして、人類の過去の遺産を最も多くを受け継ぎ、恩恵に浴して生きて来たのも我々高齢者なのである。其の遺産が潰え、途絶えることがないよう、次世代に伝える責務が、我々に課されているのだと思う。    
18世紀の英国の天文学者Herschelは、斯く云っている、     
「わが愛する友よ、我々が死ぬときは、我々が生まれたときより世の中を少し為りとも良くして往こうではないか」  と。


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