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中農養成策、これこそ日本にあった政策
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柳田國男の農政改革構想から見る現代日本農業
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山下 一仁 上席研究員
柳田國男とは日本民俗学の父、『遠野物語』の著者であるあの柳田國男(1875-1962)である。その柳田國男が農業と何の関係があるのかと思われるかもしれないが、柳田國男が初めて仕事の対象とし研究したのが、農業であり農政学だった。1890年、柳田國男は東京帝国大学法学部卒業後、農商務省(現在の農林水産省と経済産業省の前身)に入省した。農商務省の法学士第一号である。自らの家庭での不幸な経験から、農村・農家の貧困を解決しようと志したのである。
日本経済思想史上の奇跡
それまでの農村研究は歴史家が書いたものを資料として行ってきた。しかし、それでは書かれたものも少なく十分ではない。そのため、民間に残っている伝承や習慣を把握することによって農村を研究できると柳田は考えた。これが日本の民俗学の起こりである。農政学が民俗学につながったのであるが、柳田國男が農政学についての著作を著したのは僅か数年にすぎなかった。しかし、その短い間に柳田は「日本経済思想史上の奇跡」(東畑精一博士)ともいえる農政改革構想を発表している。
明治の農政思想には2つの流れがあるといわれている。ひとつは大農論であり、井上馨らはアメリカなどと同様の大規模農場を育成すべきであると主張した。これに対し、当然ながら、農業の現状を維持しようとする勢力は小農主義を主張した。勢力的には小農主義が圧倒的多数であった。
柳田が農商務省に在籍したのはわずかに2~3年だったが、彼は旺盛な論文執筆活動を行い、大農でも小農でもない中農養成策を論じた。当時の学界や官界で有力であった寄生地主制を前提とした農本主義的な小農保護論に異を唱えたのである。現に存在する「微細農」ではなく、農業を独立した職業とならしめるよう企業として経営できるだけの規模(「各農戸が其職業の独立に必要となる地積を占有」)をもつ2ha以上の農業者を考えた。「日本は農国なり」とは「農業の繁栄する国という意味ならしめよ。困窮する過小農の充満する国といふ意味ならしむるなかれ」と主張する。1961年に農業の生産性向上、構造改革を目指した農業基本法が制定されるが、その立案者である小倉武一は次のように述べている。
「それ(柳田の考え)は、営農の規模の観点から、農業構造の改善を提案したものである。農業基本法に規定している『自立経営』と類似する考えが、その半世紀以上も前に彼によって論じられているのである。われわれは、唯柳田の『中農養成策』をモデルにすればよかったのであるが、慙愧なことにも、われわれ(農林漁業基本問題調査会)はその存在を全く知らなかったのである」
農業だけで生活できる規模の農家経営を目指した「中農」は「帝力何ぞ我に有らんや」という柳田民俗学の「常民」の概念につながっていったという。
当時水田小作料は金納制ではなく物納制であった。地主には収穫物の半分の米が集まった。寄生化していた地主勢力は、農業の生産性を向上させて農業所得を増加させるという方法ではなく、米の供給を制限することにより米価を引き上げ、彼らに集まった米を売却し所得の増加を図ろうとした。具体的には朝鮮、台湾という植民地からの米の輸入を制限しようとしたのである。国防強化を口実として食料の自給が必要であると主張された。柳田は当時論じられていた農業保護関税に関し、保護主義ではなく農業改良が必要であると主張した。高コストの生産を保護することは望ましくないとし、国防のために食料を自給すべきであるといっても、労働者の家計を考えるのであれば、外国米を入れても米価が下がるほうがよいと主張した。
日本が零細農業構造により世界の農業から立ち遅れてしまうことを懸念し、農業構造の改善のためには農村から都市へ労働力が流出するのを規制すべきではなく、農家戸数の減少により農業の規模拡大を図るべきであると論じた。これこそ半世紀後農業基本法が唱えた構想であった(しかし、残念なことに、実際の農政は農業基本法とは逆に、農家所得の向上を規模拡大や生産性の向上によるコストダウンではなく政治米価の引き上げによって実現しようとした。地主勢力が米価引き上げを目指したのと同様であった。農政をめぐる構造は今も昔も変わらないということだろうか)。
柳田は、このような地主勢力の運動のもととなっている水田小作料物納制に対しても批判を加え、小作料金納制を主張した。これは地主勢力から強い反発を受けた。小作人の地位が低く地主勢力すなわち農業勢力という当時の状況の中では、柳田の主張は「荒野の孤高の叫び」(東畑精一)にすぎなかった。柳田は農商務省を去るが、彼の思想は柳田とともに新渡部稲造を中心とする「郷土会」に参加し、柳田に大きな影響を受けた石黒忠篤(1884-1960戦前農林次官、農林大臣(二度)を経験)に受け継がれていく。
柳田の思想を受け継ぎ、農地改革を実行した石黒忠篤
石黒が小作問題に関心を持つようになったきっかけは、1907年に行われた小作料を物納とする慣行に対する柳田國男の講演だった。彼は小作料が収穫量の半分以上にもなる地主制のもとにおける小作人の地位向上に尽力した。このように小作人の地位が弱かったのは民法の賃借権の扱いによる。起草者の名をとっていわゆるボアソナード民法と呼ばれるフランス民法の影響の強い旧民法は、穂積陳重の弟八束から「民法出でて忠孝亡ぶ」と排撃されるとともに、賃借権を債権よりも強い権利である物権として位置づけたため地主勢力の強い反対に遭った。この結果、穂積陳重によって起草された改正民法は、賃借権を土地が譲渡されると買い手に権利を主張できない上(売買は賃借権を破るという法源がある)、容易に解約され更新も拒否されうる債権と位置付けることとなった。このため、賃借人である小作人の地位が著しく弱いものとなってしまった。法外な物納小作料の賦課といつでも小作権を解消されるかもしれない状況に置かれた小作人と寄生地主化した地主層との間で大正中期以降小作争議が頻発かつ深刻化した。小作争議は1920年の408件から1935年には6824件まで増加した。
穂積兄弟と姻戚関係(穂積陳重は石黒の義父)にあった石黒が民法に苦しむのは皮肉なめぐり合わせというしかないが、石黒は担当課長として小作人の耕作権強化を狙いとした小作法案等を立案する。しかし、治安維持法違反として掣肘を加える官憲や政治的に強大な地主勢力に阻まれ、小作調停法の制定と小規模の自作農創設維持事業が開始されたにとどまった。小作調停法の成立によって実現した小作官制度は石黒の運用によって小作人擁護の機関として機能することとなったが、あくまでも手続法であり、実体法ではなかった。石黒の部下に芹沢光冶良がいたが、石黒課長があれほど努力してもこれだけしか実現できないのかと思い、農林省を辞め、作家になっている。石黒はその後も小作法案や自作農地法案の実現に挑戦したが、地主勢力の強い帝国議会にその都度阻まれている。
農地改革が終了した頃、新聞記者が石黒忠篤に農地改革後の日本農業の行方について質問した。石黒はポカンとしてしばらく返事をしなかった。ようやく口を開いた石黒は「いま君に聞かれてはじめて気づいたが、自分たちはそういうことについてあらかじめ深く考えていたことはなかったように思う」と答えたという。地主制があまりに強固であったため、農林官僚としてはその壁に引っかき傷をつけるくらいがせいぜいだと思っていたのに壁が崩れてしまった、その後どうするかなど考えたこともなかったというのである。地主制の壁の大きさといかに石黒がこの壁の打破に夢中になっていたかを物語るエピソードである。
農地改革では実現できなかった「健全な農業」
戦前の農政は強大な政治力を持つ地主勢力への抵抗の歴史であり、農林官僚の使命は小作人の地主制からの解放、それによる国民への食料供給の増大であった。その中でも柳田が主張した小作料金納制の実現は、小作権確立の最重要政策課題であった。これは戦後松村謙三農林大臣と和田博雄農政局長による第一次農地改革でやっと実現した。
しかし、600万haの農地のうち農地改革で小作人に開放した194万haを上回る230万haの農地を転用・潰廃し、食料自給率を40%に下げた今日の農業を柳田や石黒が期待したのだろうか。「何ゆえに農民は貧なりや」という問いが柳田の農業問題への取り組みの基本にあった。しかし、農業が衰退するなかで農家・農村の豊かさが実現するとは夢にも思わなかったのではないか。
農家・農村は豊かになったが、柳田や農業基本法の目指した生産性の高い健全な農業はとうとう実現できなかった。解放された小作農が新たな地主となり農地の宅地等への転用売却により大きな資産を取得するとともに、兼業所得により零細農家の所得は勤労者所得を上回った。また、農地改革の結果生じた零細農業構造がその後の米価引き上げによって一層強固なものとなり、その後の農業の規模拡大、発展を阻害するという事態の前で、今日柳田國男や石黒忠篤がいればどのようなメッセージを発するのだろうか。
2004年6月29日
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