2013年4月23日火曜日

台湾の歴史と”まちづくり”

HICPMメールマガジン第501号(4月8日)を転載させて頂きます。

皆さん、今日は、昨日の強風にひきかえ、初夏のような気候になりました。
先週は台湾に行って来ました。台湾は中国ではないにも拘わらず、中国語と同じような言葉を使うことと、日本政府が「二つの中国を認めず、一つの中国」の立場を取ることからどうしても中国の一部と考えてしまいます。

中国から独立か、中国との合体かという2者択一の議論がありますが、中国の好きな「歴史的認識」に立てばどうなるのでしょう。
日本政府は田中角栄のときに日中友好協定を締結したことは、それ自体大陸を支配する中国人民共和国との国交回復として理解できます。しかし、中華人民共和国は、歴史的に台湾をその支配下に置いたことはありません。

蒋介石自身も台湾を暴力的に侵略しましたが、それ以前に台湾を支配下に置いたことはありません。中国共産党に大陸から追い出されて台湾に不法に侵略し、不法占領しただけで、蒋介石が台湾にいること自体に正当性がないのです。

辛亥革命により清朝が滅んだことにより、満州族の支配は終わりました。
国民党による中華民国も毛沢東による中国人民共和国も、それ以降の内戦の中で生まれた政治勢力で、いずれも台湾を統治したことのない政治勢力です。

その昔に目をやってみると、日本人妻を娶って台湾を紅毛人(オランダ人)の手から台湾人のものに取り返した人が国姓爺合戦の劉成功です。劉成功が登場し、その時代に始めて紅毛人に支配されていた土地を台湾人のものにするに当たって漢民族(劉成功)が登場したのです。劉成功は台湾にとっては軍神として祭られ、日本の統治下では神社が作られ、そこに祀られていました。


劉成功は、明の時代の末期国王からその能力を評価された倭寇で、当時台湾を事実上貿易のために支配していたオランダの手から台湾のものにしたことで、国の英雄として現代の台湾でも尊重されています。明時代の末、王位継承をめぐって国は南北に分裂状態になり、そこに宦官の汚職腐敗により、国家の政治が混乱したとき、北方の満州族が勢力を蓄え、ヌルハチ(清の太宗?)に牽かれた一族がついに明を滅ぼし、中国大陸を支配することになりました。劉成功は伝染病のマラリアで死亡しました。その子孫は清に追い詰められ三代で消滅させられました。

そこでは清朝の支配が始まりましたが、日本では明治時代になり漁民が台湾に海難事故の救済を求めて避難したところ、地元部族の「首狩族」が56人の日本人の首を切ってしまいました。明治政府が清朝に賠償請求をしたところ、ほぼ一年間放置されていたため、明治政府は軍団を結成し台湾の首狩族征伐に出掛けました。

日本政府はその征伐に成功し、その後清朝から賠償金を取ることになりました。それほど清朝による台湾支配は曖昧なもので、それが日清戦争後の下関条約で遼東半島と一緒に日本に割譲されることになりました。しかし、遼東半島は三国干渉により清に返還しますが、台湾ではそのまま日本の支配が始まり、以降51年間日本の支配下に入りました。


そこには国民党支配の中華民国はもとより、中国共産党の中華民国も存在しません。
日本政府にとって、初めての植民地経営であることから、陸軍の最高権力者である児玉源太郎台湾総督府総監は軍の干渉を排除した植民地支配を進められました。その実行のために、優秀な人材を投入し、西欧に倣った植民地経営を始めることになりました。


後藤新平や新渡戸稲造、乃木希助のような当時の最高頭脳が台湾の植民市経営に当たったことが分かります。立派な都市計画や水道事業といったものが台湾の経済活動のインフラストラクチャーを作ったといわれます。日本が造ったこれらの公共施設や生産施設など国家のインフラストラクチャーのすべてを中国大陸からやってきた蒋介石が暴力で接収し、その後の中華民国経営の基本としました。


蒋介石が日本国に対して賠償請求をしなかった理由は、蒋介石らは、侵略した台湾から日本資産を接収し、大きな戦後復興の富を得たからです。蒋介石に台湾の資産を接収する正当な理由はないというべきです。もちろん現在中国大陸にいる中国人民共和国にも台湾を請求する理由はないのです。蒋介石は中華民国を、台湾を占領し立国し、大陸も中華民国のものといったから、中国人民共和国も、中華民国の領土は中華人民共和国のものであるといっているに過ぎず、いずれにも台湾の国民を蚊帳の外において、「自分のもの」と言う主張は、正当な歴史認識をすればできないはずです。

実際に台湾に出掛け、台湾人がどのように考えているのか、ということを観察すると、台湾には独立運動といった種類のものはなく、台湾人が自らの政治をすることの邪魔をしないでくれ、つまり、中華民国の中華人民共和国も台湾から出て行ってくれ、というのが台湾人の共通の気持ちのようです。


国民党が暴力で台湾に侵入し、住民を騙して約3万人の台湾人を殺した2.28事件(1947年)から、李登輝大統領が過去の国民党による白色テロによる台湾支配を総括するまで、台湾には自由が封じ込められた暗い時代が続いていました。
李登輝、陳水扁と二代に渡って民主化路線が続き、台湾人は自らの国づくりに取り組んできました。米国に留学した優秀な科学者や技術者を帰国させ、カリフォルニアのシリコンバレーに相当するIT産業の集積を新築市周辺に建設し、世界のIT産業の一角を担うようになっています。


Paris
都市はどこも美しく計画され、中でも高雄市は、西欧の近代都市顔負けです。「都市を緑と水による公園にする』パリ大改造計画でサンジェリゼどおりを造ったジョルジュ・オースマンの夢の実現を果たしています。

都市の幹線道路には中央に高速走行道路があり、その両側に豊かな並木が植えられ、緩速斜線道路があり、そこに面してアーケード付の道路があります。アーケードはシャワーにあったときの人の移動を容易にするだけではなく、歩道を作ることで町の商業活動を盛んにしています。スクーターや自動車もアーケードに少し入り込む形で自動車の走行も人の走行も邪魔しないで歩車分離の交通を実現しています。
高雄市



後藤新平はその後、満州開発に辣腕を振るったといわれています。大連は帝政ロシア時代にロシアがサンクトペテルスブルグに倣った都市計画をし、そこに日本が建築物を建築したことや、新京や奉天に満州国の都市を建設したのも、帝政ロシアの大連の都市計画と台湾での経験が生かされたのではないかと想像しました。


台湾の都市は、あたかも、「西欧の歴史都市を旅行しているような文化性」を感じさせるもので、中国の都市、上海、北京、大連などとはまったく似てはいません。共通するものがあるとすれば、広告と看板が商業地域では景観を混乱させていることです。
高層建築も優れたデザインで造られていましたが、中低層建築も大変美しくリズムを感じさせる街並みを造っており、住宅が、国民の資産形成に寄与していることを感じさせられました。

今回の旅行は、台湾を一周するもので、プレートテクトニックスの理論どおり台湾を南北に縦断する断層に沿って3000メートルを越す山脈が大きな壁を作り、その地形により経済活動が違い、東西でまったく違った都市を造っていました。日本の植民地時代にゴールドラッシュのあった九フンには、遊里の街が開発され、それを舞台に世界の映画祭で最高賞を得た映画『悲情城市』の影響で観光地として蘇り、今も観光地となっています。


太魯閣峡谷
宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のアニメの舞台にも採用された異次元空間を楽しむこともできます。自然景観も海、山、湖など素晴らしいものが一杯ありますが、中国との関係で世界遺産とされているものはありません。

高さ300メートルも垂直にそそり立つ岩山が20キロメートルも続く太魯閣峡谷(タイルーゴーシアグー)や海の中に並ぶ小島三仙台など、大きな観光資源が詰まった国です。日本から飛行機で、3時間半で到着できます。是非一度、直接ご自分の目でご覧になられてはいかがでしょうか。


(NPO法人住宅生産生研究会 理事長 戸谷 英世)
ホームページ:http://www.hicpm.com/


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