2020年8月30日日曜日

なぜ「抽象化が上手い人」は富裕層になれるのか?

MAG2N E W Sから。

私もこれがうまくできませんが、
ここに書かれていることはその通りだと思います。
納得です。かくありたいと切望するところです。

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なぜ「抽象化が上手い人」は富裕層になれるのか?

具体の世界は貧困の巣窟

ビジネスのシーンにおいて、会議や営業相手に説明やプレゼンをする時、「もっと具体的に言ってよ」「抽象的すぎてよくわからない」などと言われることがしばしばあります。これは言い換えれば、「もっとわかりやすく伝えてもらわないと理解できない」ということです。そんな具体化したことでしか物事を考えられない人がほとんどだと語るのは、米国公認会計士でフリー・キャピタリストの午堂登紀雄さん。午堂さんは自身のメルマガ『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』の中で、具体と抽象についてわかりやすく解説し、抽象化能力に長けている人こそ、成功者になれると述べています

「困った人」に粘着された話

先日、私が執筆したある記事がヤフーに転載されたのですが、それを読んだ読者からツイッターでツイートが来ました。「根拠を提示せず、適当なことをヌカしてますね」と。
そこで、丁寧に「当該記事のメインメッセージは『自分の支出を見直そう』ですけど」って助言してあげたのですが、どうやらカンに触ったようです(笑)「だったらそのように書け」と返ってきました。
それで、「冒頭と最後の2か所にも書いてます」と返信すると、「そうじゃなくて根拠を示せ。でないと与太話」と来ました。面倒なので「信じないのも自由。どう判断しようと読者の自由です」と返したのですが、しつこく絡んでくるので無視することにしました。
せっかくですので今回は、なぜこういう人が生まれ、こういう反応をするのかの理由を考察してみました。

具体の世界で生きている人は、抽象の世界が見えない

筆者が普段、執筆するコラムのように「富裕層の特徴は~」などと一般化した話というのは、抽象度を上げて紹介しているわけですが、ゆえに理解できない人は少なくありません。というか圧倒的多数の人は抽象的思考が苦手です。
たとえばトヨタの「プリウス」。これを一段階抽象度を上げると、「ハイブリッド車」。もう一段階抽象度を上げると「自動車」(この間に「セダン」を入れてもOK)。次は「乗り物」というのが、具体と抽象の関係です。以前、コラムでこのようなことを書きました。

「知識・情報・経験を組み合わせて成功法則を導き出せるのは、抽象化能力の高さがあってこそです。 また、そこから実行に移すには徹底的な具体化能力が求められます。ビジネスモデルは抽象的なものですが、実行計画は具体そのものです。
料理も同じく、たとえば献立の組み立ての構想は抽象であり、個々のメニューの調理は具体です。一流の料理人は両方できますが、二流三流の料理人は調理しかできないのです。
起業家や経営者はグランドデザイン(戦略)を描き、それを実務に落とし込む。そしてそれらを実践するのが一般従業員であるように、成功者は具体と抽象を往復する能力が高く、貧しい人のほとんどは具体の世界でしか生きていない。
だから凡人は具体的な指示を与えられないと動けないため、たとえば「これ任せるから好きにやって」と言われたら混乱しますが、成功する人は嬉々として取り組むものです。

という文章です。 ゆえに圧倒的多数がサラリーマンで、圧倒的少数が起業家なわけで、「具体と抽象の往復」がどれほど重要であるか理解できると思います(むろんサラリーマンであっても抽象的思考力の高い人はたくさんいますので念のため)。

「抽象化能力が低い」人は仕事ができない

ちなみに起業家というのは、自分で市場ニーズを読み解き商品を企画し作って値段をつけて販売するという、いわゆる一連のビジネスコンセプトを練り上げられる人のことです。 なので請負業務・相談業務・定型業務が主体のフリーランスのことではありません。
こういう仕事はほとんど具体であり、抽象的な思考は不要だからです(ただしコンサルタントやデザイナー、コピーライターや建築家などクリエイティブな職業は、極めて高度な抽象的思考が求められる仕事です)。
そして、「いや、こういう人もいる」「データで示せ」などという人は、抽象化能力が極めて低い、具体の世界で生きている人です。なぜなら、例外に引きずられて一般化できないし、定性情報から傾向を抽出できないことを意味するからです。
そしてこの具体と抽象というのはマジックミラー(一方からは見えるが、反対からは見えない)の側面を持っていて、抽象的思考能力が高い人は具体の世界も見えますが、抽象化能力が低い人、つまり具体の世界で生きる人には、抽象化の世界が見えません。もちろん、見えてないことにも気が付きません。

話が通じないのは「住んでいる世界が違う」から

むろんこれは程度問題でイチかゼロかという話ではありませんが、端的に言うと「住んでいる世界が違う」ということ。 先ほど、「一流の料理人は両方できるが、そうでない料理人は調理しかできない」というのもそういうことです。 だから「理解できないのは書き手が悪いからだ」というのは半分正解だとしても、半分は不正解。
なぜなら、具体の世界でしか生きていないために抽象的な話が「わからない」わけで、こういう人には何を提示しても理解できないからです。 だから議論がかみ合わない。というか議論にすらならない。自分が見えていないことにすら気づいていないので当然です。そしてそのまま生涯を終える人がほとんどです。
そして具体の世界の住人はここで「お前が何を言っているのかわからない」「詭弁だ」という感想を持ちます。 彼らには富裕層関連の話を読んでも時間の無駄ですので、他をあたった方がご本人のためかと思いますが、なぜか読むんですよね…。
もしあなたが情報発信者で、同様の批判を受けたとしたら、時間の無駄ですのでスルーがおススメです。なぜなら、彼らは理解しようとしないどころか相手の揚げ足を取ることでしか自分を正当化できないので、永遠に平行線だからです。
丁寧に説明しても否定するし、「判断は自由ですよ」といってもさらに絡んでくる粘着性を持つのもこういう人です。

数字では見えないものを見る

先ほど「データで示せ。でないと信用できない」というクレーム(イチャモン?笑)が来たという話をしましたが、思考パターンや行動パターンから教訓を抽出する作業は、実は定性データの分析の方が適しているというのが私の実感です。
なぜなら「なぜそうしたのか」という、判断の根拠となった行動原理を想像しやすいからです。 たとえば「富裕層の8割は長財布を持っている」というデータがあったとして、では自分も長財布に変えれば富裕層になるかというと、なるはずがない、というのはおわかりいただけると思います。
「きれいにお札を並べ、レシートやカード類も整理しているから」というのも理由としては不十分で、「金銭管理をきちんとする習慣ゆえに、それが生活の全方位に発揮され、ついでに財布の中も整理されている」わけで、長財布は結果に過ぎないのです。
だから結果を見たところでほとんど意味はなく、「なぜそうしたか」を探る作業が必要で、それには個別個別の人をじっくり観察する必要があります。
それに、定量化すると平均化されやすいですから、突出した人の突出した傾向が埋もれやすくなります。突出しているがゆえに例外として切り捨てられることもあるでしょう。 記事の通り昨今は現金も財布も持ち歩かない富裕層が増えていますが、全体としては少数派です。
しかしそれが、将来の多数派になる可能性を秘めているとしたら? マスマーケティングに携わるマーケターならともかく、定量分析から得られる示唆にはほとんど意味がないというのが、これまで数百人もの成功者と、数千人もの(?覚えていませんが)一般人を見てきた感想です。

プライド(だけ)が高く自分が賢いと信じたい人は「ネット上のあおり屋」になりやすい

そして冒頭に戻りますが、この人、実社会で承認欲求が満たされていない典型的な人だなという印象です。こういう人は結構多くて、ネットの世界では頻繁に出没します。 特にSNSは承認欲求を満たすのに格好のツールで、相手を落とすと相対的に自分の立場が上がるという壮大なカン違いを起こしやすい。
そして、相手が悪い、書き手が悪いと主張し、自分が能無しではない、相手よりも賢いことを確認したくなる。 それで相手の主張を認めると、どこか自分が議論に負けたかのように感じ、自尊心が保てないわけです。
だから言われっぱなしでは気が済まず、延々と絡み続ける粘着質になるのもこのタイプです。「ネット上のあおり屋」ですね。相手が車から降りて土下座するまで突っ込みまくるという…笑
だから自分が「読めていない」ことを絶対に認めるはずもなく、書き手が悪いの一点張り。 歩み寄る余地を見出せないのはクリエイティビティがない証拠で、だから稼ぎが悪いのです。
そしてそういう発想であるがゆえに、本人が稼げていないということにも気づいていない。なぜ稼ぎが悪いとわかるか?先ほど述べたように、本人は抽象化能力が低く、抽象的な思考が極端に苦手な人だからです。
文面からも完全に具体の世界の住人で、まったくお金のにおいがしない。 こういう人は稼ぐ仕組みを考えることも苦手なので、単純業務しかできません。だから当人の職業が「FP」なのでしょう。
そしてFPなのに富裕層の顧客がいない、接点がないというのも、一連のツイートを見ればよくわかります。だから余計に「データ示せ」などと言うのでしょう。

まさに「Garbage in Garbage out」

それで思い出しました「Garbage in Garbage out」。これはどういう意味かというと、「ゴミを入れればゴミが出てくる」というデータ分析の世界における慣用句なのですが、残念な頭脳にはどんな情報を入れても残念な結果しか出てこないという意味でもあります。
むろん、ご本人は自分の生き方に納得されているのでしょうから、それはそれで自由。ただ、安易に他人に絡むような迷惑行為はやめていただきたいなあと思います。 結局「情報」というのは批判することには意味がなく、その中身を自分なりに咀嚼し、自分の生活に取り入れようという姿勢を持たなければ、単なる時間の浪費です。
むろん、たとえば山本一郎さんのように、批判コラムがお金になるという職業の人は別です。それと彼の場合は誹謗中傷などではなく、クスっと笑えるシニカルさがあるのが特徴で、ご本人はリアルでは非常に謙虚な人です。 この記事、修正して何かの本で使えそうです^

具体と抽象を往復するには?

で、大事なのはここからで、ではどうすれば「具体と抽象の往復ができるようになるか」です。 コツは「要するに、たとえば」をつねに意識しながら情報や事象を観察することです。「要するに」は抽象化する作業であり、「たとえば」はそれを具体化する作業なので、これをつねに繰り返すことで、抽象の世界に入れます。
あとは程度問題で、たとえばこのコラムの着想の原点となった「具体と抽象」という著書がある細谷功氏。「地頭力を鍛える」で有名ですが、この人の抽象化能力はさすがとしか言いようがなく、私はまだまだ追いつけていません。
ほかにも山口揚平や落合陽一さんもすごくて、私より若いですが、抽象化能力は私よりも上です。なので彼らの書籍はとても参考になります。
image by : shutterstock
午堂登紀雄この著者の記事一覧 
フリー・キャピタリストとは、時代を洞察し、自分の労働力や居住地に依存しないマルチな収入源を作り、国家や企業のリスクからフリーとなった人です。どんな状況でも自分と家族を守れる、頭の使い方・考え方・具体的方法論を紹介。金融・経済情勢の読み方、恐慌・財政破綻からの回避方法。マネタイズ手段としての資産運用、パソコン1台で稼げるネットビジネス、コンテンツを生み出し稼ぐ方法。将来需要が高まるビジネススキルとその高め方。思考回路を変えるのに役立つ書籍や海外情勢など、激動の時代に必要な情報をお届けします。
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2020年8月23日日曜日

シアトル酋長の手紙

この手紙は、2006年1月に、カナダ在住日本人建築士小林徹様から頂戴いたものです。小林さんがご自分で翻訳されました。
大地は誰のものか、本当に考えさせられます。
理想通りにはいかないとしても、原点を認識しておく必要があると思います。

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1854年に、時のアメリカ大統領(第14代の Franklin Pierceでしょうか) が、インディアンのシアトル酋長に「土地を売って欲しい、そのかわり、インディアン保留地を約束する」という申し出をしたのですが、それに答えて、酋長は返事を書きます。「大地はかけがえのないもの 」だと。
その意味するところ、アメリカの自然環境を考える上での原点ともいえるほど、美しく、深遠な文章です。ご参考までに、コピー致しました。
私は、21世紀の住環境を考える「心経」とでもいうべきものだと感じ、ここに全文を翻訳してみることにしました。地球規模での環境破壊が起こり、人々がようやく気付き始めた現在ならともかく、150年近く前の話ですから、この酋長の洞察力と、心の深みが、お分かりいただけると思います。
ただ、翻訳するにあたって、ひろく一般性をもたせるため、あえて原文のWhite man を「あんた方」に、Red man あるいはIndianを「わしら」と、読み換え、全体を詩文の感じにととのえました。
また、あまたの風雪を経た矍鑠たる老人が、遠く地平を眺めながら、さびのある声で、ゆっくりと語っていく姿を想像しながら意訳していきましたので、結果として「手紙」というより「語り」という雰囲気になってしまいましたが、このスタイルの方が、酋長が謂わんとしたその気持ちそのものに、より近づけたような気がしております。
1854年の話ですが、温室効果、オゾン層の破壊など、地球規模での環境破壊は、結局、この酋長の予言どおりになってしまった感があります。
最後の、The end of living and the beginning of survival.すなわち、「生きることの終わりであり、生き残ることの始まりである」という文は、胸に迫ってきます。

大地はかけがえのないもの
空を、大地の暖かさを、売り買いすることができるんじゃと?
不思議な考えじゃ。わしらには、とーんと見当もつかん。
わしらが、空気の爽やかさや、水のきらめきの所有者じゃあなかろうに、
どうしてあんた方は、それを買うことができるんじゃろ?
この大地のものはみーんな、わしらの種族にとって神聖なのじゃ。
輝く松葉の一つ一つ、海辺の砂の一粒一粒、暗い森の中に漂う霧、森の空き地、
羽音をたてる虫の一匹一匹は、わしら種族の、記憶と経験の中で神聖なのじゃ。
木の中を流れる樹液は、わしらの記憶を運んでおる。
どうやら、あんた方の死者は、星々の間をさまよううちに、生まれた国を忘れてしまうようじゃな。
じゃが、わしらの死者は、この美しい大地を忘れることはない。
それは、わしらの母だからじゃ。
わしらは大地の一部じゃし、大地は、わしらの一部なんじゃ。
香しい花は、わしらの姉妹。鹿や馬や大鷲は、わしらの兄弟じゃ。
岩の頂き、草地に宿る露、野の馬の体温、そして人。
みーんな、同じ家族なんじゃ。
じゃから、あんた方の長(おさ)が、わしらの土地を買いたいといってきたとき、
あんた方は、わしらに、大それたことを望んできたものじゃ。
あんた方は、わしらが気持ちよーく生きられるように、保留地を提供するという。
それは、つまり、あんた方が、わしらの父となり、わしらは、あんた方の子供となるということじゃろう。
じゃから、わしらは、わしらの土地を買いたいという、あんた方の申し出を、よーく考えてみよう。
しかし、それは易しいことではありゃせん。
この大地は、わしらにとって神聖じゃからな。
この、小川や河を流れ、輝いている水は、ただの水ではないんじゃ。
それは、わしらの先祖の血じゃ。
もし、わしらが、あんた方に、この土地を売るんなら、
あんた方は、それが神聖であることを覚えておかねばならん。
また、あんた方は子供達に、それが神聖であることを、そして、
湖の澄んだ水面のかすかなきらめきが、わしら種族の、生命のできごとや記憶を伝えていることを、
教えねばならん。
水のせせらぎは、わしらの父の、そのまた父の、声なんじゃ。
河は、わしらの兄弟じゃ。河は、わしらの渇きを癒す。
河は、わしらのカヌーを運び、わしらの子供たちを養う。
もし、わしらが、わしらの土地を、あんた方に売るんなら、あんた方は覚えておかねばならん。
あんた方は、あんた方の子供達に教えねばならん。
河は、わしらの兄弟であることをな。あんた方の兄弟であることをな。そして、
これからは、あんた方が兄弟に与えるのと同じ思いやりを、河に与えねばならんということをな。
わしらは、あんた方が、わしらの生き方を理解しないのを知っておる。
あんた方にとって、一片の土地は、その隣の一片の土地と同じなんじゃろ。
夜に訪れた見知らぬ人じゃから、
必要なものは、なんでも土地から奪っていくのじゃ。
大地は、あんた方の兄弟ではありゃせんのじゃ。敵なんじゃ。
征服したら、突き進むだけじゃて。
あんた方は、あんた方の父達の墓をあとに去っていく。かまいはせんのじゃ。
あんた方は、あんた方の子供達から土地を奪う。かまいはせんのじゃよ。
あんた方の父達の墓や、子供達の生得権は、忘れられてしまっておる。
あんた方は、母なる大地、兄弟である空を、買ったり、盗んだり、
羊や、光った首飾りのように、
売ることができるもののように、扱っておるんじゃ。
あんた方の食欲は、大地を貪り食い、荒れ地だけを、残していくんじゃ。
どうもわからん。
わしらのやり方は、あんた方のやり方とは違う。
あんた方の町は、わしらの目には痛いんじゃ。
じゃがそれは、恐らく、わしらが野蛮人で、理解しないからじゃろう。
あんた方の町には、静かな場所などない。
春に、木が葉っぱを広げる音を聞く、場所がない。
かさこそという虫の羽音を聞く、場所がないんじゃ。
恐らく、わしが野蛮人で、理解しないからじゃろう。
騒がしい音は、耳を侮辱するようじゃ。
もし、人が夜、夜鷹の寂しげな鳴き声や、
池のまわりの蛙の合唱を聞くことができんとは、
いったいどんな生活なんじゃろう。
わしは野蛮人じゃ。理解できん。
わしらは、池の水面をかすめていく風の、やわらかい音を好む。
昼の雨に清められた風、ほのかに松の香をはこぶ、風の薫りを、好むものじゃ。
わしらにとって、空気はかけがえのないもの。
すべてのものは、同じ息を、共有しているからじゃ。
獣、木、人間、彼等はすべて、同じ息を分け合っておる。
あんた方は、あんた方が呼吸している空気に、気付いてはおらんようじゃ。
まるで、何日も死にかけている人のように、臭気に麻痺しておる。
しかし、もし、わしらがあんた方に、わしらの土地を売るんなら、
空気はわしらにとって、かけがえのないものだということを、覚えておかねばならん。
空気は、それが支えているすべての生命と、その精神を分け合っているのじゃ。
風は、わしらの祖父に最初の息を与え、彼の最後の吐息を受け取った。
もし、わしらがあんた方に、わしらの土地を売るんなら、
あんた方は、それを隔離して、神聖に保っておかねばならん。
たとえ、あんた方でも、草地の花の、甘い香を含んだ風を、味わえる場所としてな。
そこで、わしらは、わしらの土地を買いたいという、あんた方の申し出を考えてみよう。
もし、わしらが、その申し出を受け入れるんなら、
わしは条件を一つ付けるつもりじゃ。
あんた方は、この土地の獣を、兄弟として扱わねばならないという条件をな。
わしは野蛮人じゃから、ほかの扱い方を知らん。
わしは、無数のバッファローが、あんた方によって、通りがかりの汽車の窓から、鉄砲で打たれ、
腐った死骸となって、大草原に打ち捨てられているのを見てきた。
わしは野蛮人じゃから、どうして、煙をはく鉄の馬の方が、
わしらが生きるためにだけ殺すバッファローより、もっと大事なのか、わからない。
獣がいなかったら、人はいったいなんなのか?
もし、すべての獣がいなくなったら、
人は、大きな心の孤独に苛まれて、死んでいくじゃろう。
獣たちに起こることはなんでも、やがては人の上にも起こる。
すべてのものは繋がっているのじゃ。
あんた方は、あんた方の子供達に教えねばならん。
足の下の土地は、あんた方の祖父たちの灰であることをな。
彼等が土地を敬うように、あんた方の子供達に告げるが良い。
大地は、わしらの親戚の命で、満たされているんじゃと。
わしらが、わしらの子供達に教えてきたことを、あんた方の子供達に教えるが良い。
大地は、わしらの母なんじゃと。
大地にふりかかることは何でも、大地の息子たちの上に、ふりかかるのじゃ。
もし、人が地に唾を吐けば、彼等は、彼等自身に唾を吐きかけているんじゃ。
これが、わしらが知っていることじゃ。
大地は人に属さない。人が大地に属しているのじゃ。
これが、わしらが知っていることなんじゃ。
すべてのものは、家族を一つにする血のように、つながっておる。
大地にふりかかることは何であれ、大地の息子たちの上にふりかかるのじゃ。
人が生命の織物を織っていたのではない。
人は単なる織物の中の、一筋の糸にしか過ぎん。
人が織物にすることは何であれ、自分自身にすることなんじゃ。
その神が、まるで友人どうしのように、共に歩き、共に話しをするという
あんた方でさえ、共通の運命からは逃れられんのじゃ。
結局、わしらは兄弟かも知れんがな。
いずれ、わかるじゃろう。
わしらが今、知っていることは一つ。
それは、あんた方は、いつかきっと、わしらの神は、
同じ神であったことを発見するじゃろうということじゃ。
今、あんた方は、わしらの土地を所有したいと思っているように、
神を所有していると考えているかも知れんが、それは、出来んことじゃ。
彼は人類の神なのじゃ。
じゃから、彼の慈悲は、わしらにも、あんた方に対しても、おんなじなんじゃ。
大地は、神にとって、かけがえのないものじゃ。
じゃから、大地を傷めるものは、その創造者の上に、侮りを積み上げておるんじゃ。
あんた方も、やがては死ぬ。おそらくは、他のすべての種族よりも早くな。
あんた方の寝床を汚しつづけ、ある夜、あんた方の汚物で息がつまるじゃろう。
だがな、滅び去る時、あんた方は、明るく輝くじゃろう。
あんた方を、この世にもたらし、何か特殊な目的のために、あんた方に、この地の支配権を与え、
わしらを支配する権利を与えた、その神の力に焼かれてな。
その運命は、わしらには神秘じゃ。
バッファローが殺されたとき、野生の馬が飼いならされたとき、
森の秘密の場所が、たくさんの人の匂いで満たされたとき、
豊かな丘の眺めが、電話線で損なわれたとき、
わしらは、分からなくなってしまうのじゃ。
あの木の茂みはどこへ行った。消えてしまったぞ。
イーグルはどこへ行った。もう、おらん。
生きることが終わり、生き残ることの始まりじゃ。

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