2022年1月14日金曜日

農村振興の根源的な問題を考える(1)

 キャノングローバル戦略研究所研究主幹山下一仁氏の論説です。

メディア掲載  グローバルエコノミー  2022.01.13

『週刊農林』第2468号(1月5日)掲載

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私は1998年から2000年まで農林水産省・地域振興課長として、中山間地域等直接支払いを導入したほか、山村振興事業などの農村地域対策を担当した。退官後もある地域の農村計画に関わった。現在も地方に行く機会は少なくない。

農村が特段荒廃しているとは思わない。他方で、町の中心部は、郊外の大規模小売店舗に押されシャッター通り化が進み、いくつかの住居は崩落し、疲弊している。シャッター通り化の原因の一つは、まとまった農地が転用されたことにある。農村は加害者で町は被害者である。にもかかわらず、町には対策らしきものもないのに、農村には農林水産省に農村振興局があるように、対策を打つのに十分な予算や組織人員が存在する。

2021年6月には、「新しい農村政策の構築」と題する報告書も出された。「地方への人の流れを加速させ持続的低密度社会を実現する」ことが目的だとされている。果たしてこの報告書の方向で農村振興が実現するのだろうか。私には、体制と目的・内容の両面において、問題の根源に対する問いかけが欠けているように感じる。

誰のための地域振興なのか?

農村振興の方策を考えている人に水をかけるかもしれないが、何のため、誰のために、地域振興を考えているのだろうか?地域住民のためだという答えが返ってくるだろうが、本当にそう思っているのだろうか?

農林水産省や関係団体の職員(農村を研究対象とする研究者も含む)にとって、農村から人がいなくなれば、組織や仕事を維持できなくなる。かれらにとって、報告書の目的のように、農村人口の維持や農村振興に疑念を抱く余地はない。農村振興対策の最大の受益者は農林水産省である。農業公共事業も、農業関係が伸び悩みを見せるや、集落排水事業という農村整備に着目して事業量を維持拡大した。

農村を抱える市町村長や自治体の担当者も、この点では同じである。2014年、約1800の市区町村のうち2040年には896が消滅危機に直面するという「日本創生会議」の試算が、彼らに大きな衝撃を与えた。住民がいなくなれば、地方自治体は消滅してしまう。地方自治体の組織の一員としては、できる限り地域に産業を誘致し、住民の数を確保したい、人口減少を食い止めたいという気持ちになる。それが、自らが属する組織や仕事の維持につながるからである。

ただし、自治体の担当者にとって、仕事の維持のためには、少しばかりの過疎化は悪いことではない。過疎地域に指定されるということは、地域としては政策がうまくいかなかった証拠であり、不名誉なことである。しかし、市町村の担当者としては、国から他の自治体よりも優遇された援助を受けられるようになる。そもそも過疎法は、過疎地域から卒業させることを目的とした法律なのに、地方自治体としては、過疎地域に“入学したり、卒業しない”ことの方が、望ましくなる。もちろん、過疎法がなくなれば、このような事情はなくなる。

自治体担当者と住民の本音

このような自治体の担当者も、住民としての本音は異なる。自治体の職員としては住民に市から出てほしくないが、親としては、子供を東京や大阪の大学に通わせて、ゆくゆくは都市で活躍してほしいと願う。高度成長期以降、農村から都市に大量の若者が流出したのは、こうした親の期待や本音が若者の背中を押したことも、大きな要因だった。

住民としては、周囲にだれもいなくなってコミュニティが崩壊するようになっては困るが、そこそこの生活ができさえすればよい。このような地域住民は、農林水産省が求める農村人口の維持や農村の発展や振興に、それほど興味はない。外部からは、活気のない錆びれた地域で何らかの対策が必要であるように見えても、住んでいる人たちは現状に満足している場合も少なくない。住民の主な関心は、地域が発展するよりも、医療サービス(やインターネット)にアクセスできるかどうか(そのために医者を村に駐在させられるか、できないとき公共交通機関が財政的に可能か、それもできないときの他の方法は何か)、自然災害や積雪から身を守ることができるかどうかである。

限界集落の不都合な真実

一時期、若者が去って年寄しか残っていない集落を指す“限界集落”という言葉がマスコミをにぎわせた。やがて年寄が死亡すると、集落が消滅してしまう。かわいそうだというのだろう。しかし、地方研究者からそれを否定する出版(山下祐介『限界集落の真実』ちくま新書2012年)もなされた。高齢化によってなくなった集落も少ないし、また限界集落というところに住んでいる高齢者の人たちに、集落消滅の危機感もなく、みな元気で暮らしているというのだ。

若者が去ったのは強制されたからではない。今では限界集落に残されたかわいそうな年寄りが50歳前後の時には、子供に集落の外に出るように勧めたこともあったはずである。立身出世の志しがある人間は田舎を出て東京に行くべきだ。これが地方の人の本音である。唱歌“ふるさと”にあるように、大志を抱く若者にとって、ふるさとは「志しを果た」す場所ではない。

いくら農林水産省が、限界集落の人口を増やし活性化しようとしても、その手段はない。集落を出て行った子供たちを呼び戻すなどして、昔の集落に戻すことは不可能である。何より、限界集落にいる年寄自身がそのようなことを望んでいない。

農政と逆方向の「撤退の農村計画」

2010年「撤退の農村計画」という本が出版された。子供に引き取られて集落から出る住民も、残された住民も、地域コミュニティがなくなって孤立化してしまう。それなら、集団で集落から撤退する方法を考えるべきだというものだった。この本は限界集落の再生が困難だということを認識している。現場感覚として、限界集落対策としては、これしか方法はないだろう。

これに対して、農林水産省は、農村人口の維持や農村振興に強い関心を持つ。次が自治体の担当者だ。しかし、地域住民のどれだけの人が、農林水産省の農村ビジョンに関心を持つのだろうか?Iターン者で農村の人を増やしても、かれらの多くは陶芸家や自然愛好家など自分たちの独自の世界を大切にしたい人達で、コミュニティ作りに無関心な人が少なくない。逆に、彼らにそれを要求すれば、別の農村に行かれてしまう。

農村振興にかかわる人たちが、自らの組織や仕事などの利益を離れて、地域住民が何を望んでいるのか、そのために何をしなければならないのかを真剣に考えるべきである。「撤退の農村計画」の著者たちに拍手を送りたいのは、彼らが地域住民のために何が最善かを真剣に考えたことだ。

農村振興の推進者は誰か?

農村振興を推進するとしても、そのアクター、担い手を誰ととらえるのかについても、建前を抜きにして検討しなければならない。まず考えられるのは、市町村であるが、平成の広域合併により行政区域が巨大化し、周辺の農村地域に注意が行き届かなくなっている。

既に述べたように、市町村の職員の本音は、住民の本音や要望と同じではない。自治体が作る計画が地方の人が望んでいない可能性もある。自治体の人による自治体の人のための地域振興政策となってしまい、住民としては望んでもいない財政負担のツケを回されることになりかねない。産業おこしを望んでいない地方もある。過疎法で補助金の率が上乗せされるとか過疎債で地元負担が軽減されるといっても、地方負担はゼロではない。将来の運営費のことを考えないで、町おこしのための箱ものを作り、後年度に大きな財政的なつけが回ってしまった例はいたるところにある。

JA農協も、まとまった農産物のロットを集荷できない中山間のような地域からは、真っ先に撤退した。合併で消滅した旧農協の本所には、信用・共済関係者を置くだけで、農業の関係者がいないケースもある。町の中心から離れた集落にあったJAバンクのATMを撤廃したため、有給休暇を取って町のATMまで行ってお金を引き出さなければならないというところもある。

そもそも、JA農協が合併を繰り返したのは、信用・共済事業の効率化のためである。一県一農協となったJA島根のようなところで、どうやって農業や農村の振興を図れるのだろうか。信用・共済事業が事業の中心となり、これによる利益の最大化が組織の目的となっているJA農協を、農業・農村振興の担い手と考えることは適当ではない。JA農協自身農村振興に関心は薄い。農村振興の予算や制度の要求を行ってきたのは、市町村長を会員とする全国山村振興連盟だった。JA農協は米価維持などには真剣だが、農村振興のために政治活動を行ったことはない。

結局、農村振興推進の担い手は地域住民しかない。農林水産省からすれば、大都市から農村に人口を還流させ、全ての農村を振興したいと考えるかもしれないが、地域住民がそれを望まない農村もある。次回述べるように、農村人口を増加させることは、地域(農村)振興と逆行する。

そもそも、地域の状況は千差万別であり、地域の在り方を決めるのは地域住民である。霞が関は、余計なお世話をすべきではない。霞が関が用意すべきものは、“特定地域づくり事業協同組合”や“中山間地域等直接支払い”などの地域振興のツール(道具)である。これらのツールを使うか使わないか、どのように使うかは、地域住民に任せればよい。

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