2020年9月17日木曜日

持続可能性が高いニュージーランドの管理放牧畜産

少々古い記事ですが、内容は未来を語っています。
長野県では2017年から、小布施牧場がこのスタイルで操業しました。
(お断り:文字に色付けしたのは編者)
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『農業経営者』201711月号より
[特集]持続可能な農業・農村へ

「パイオニア 持続可能性が高いニュージーランド・スタイル」
小谷 栄二氏(58)ファームエイジ(株)代表取締役

牛も鹿についても、ニュージーランドからインパクトを受けた。ニュージーランド式酪農の普及に努めて30年あまり。農業を変えるためには農村が変わらなければならない。
【豊かなニュージーランドの酪農と出会い】
私は、現在の会社を設立する30年ほど前まで、米国式の酪農を普及する仕事をしていた。1頭当たりの搾乳量を増やせば増やすほど儲かる。頭数を増やせば増やすほど儲かる。搾乳量と頭数が多い人がいちばん偉い。そう信じていた。しかし、ニュージーランドの酪農に出会ったことが私の転機となった。

ニュージーランドで私が見たのは、当時の日本の酪農とは全く別の世界だった。酪農家の自宅を訪ねると、テニスコートやプールがあり、きれいなドレスを着た奥さんがイングリッシュティーと手づくりのクッキーでもてなしてくれた。聞けば、年に2、3カ月、海外旅行に行く酪農家も多いという。例えるなら、ニュージーランドの酪農家は、日本での医者と同じようなステータスであり、憧れの職業だったのである。
経営内容を見ると、ニュージーランドでは搾乳日数が少なく、1頭当たりの年間搾乳量は日本の半分にとどまる。乳価は、先進国のなかでも最も乳価が高い日本に比べて、いちばん安い。それなのに、経済的にも時間的にも余裕がある暮らしをしている。その理由は、短時間労働かつ低コストで済むような牧場設計のノウハウにあった。
日本では、酪農家は1年365日、24時間拘束され、奥さんも働き手である。飼料は輸入した穀物飼料を買って与え、乳量を競っている。それでも利益は少なく、離農者は多く、子供たちも跡を継がず、新規就農者も少ない。
「日本の農業を変えたい」
私は、ニュージーランド式の酪農を日本に導入しようと、牧場設計に必要な電気柵の会社を立ち上げた。1985年のことである。
【全体設計された放牧で豊かな酪農へ】
当時、日本でも放牧は行なわれていた。しかし、ニュージーランド式放牧が日本の仕組みと決定的に違うことがある。それは、人手とコストをかけないように、全体のシステムがきちんと設計されている点である。システムの概要は次のとおりである。

まず、農場を電気柵で区切り、複数の牧区を設ける。搾乳ごとに次の牧区へ牛を移動させて草を食べさせ、最初に放牧した牧区の草丈が1520cmに生長したら、また元の牧区に戻すというローテーションを組む。そのため、牛は常に草丈1520cmの柔らかくておいしい草を食べることができる。
若い草のエネルギー量は、じつはトウモロコシに匹敵するので、濃厚飼料の給与量を減らすことができる。また、牛の糞によって牧場の土壌は本来の生態系を保ち、更新しなくても草が良く生育する。
牛舎から牧区に向かう牧道は、牛が怪我をせず歩きやすいように整備したり、フェンスやゲートを設けたりして、牛が自分で牧区まで移動できるようにしている。水飲み場まで牛が遠い距離を移動しなくても済むように、牧区の中には水槽を設けている。
さらに、牛の品種改良も設計のひとつである。乳量が多い牛よりも、人手をかけずに済むような従順で歩くのに適した品種に改良されている。
私は、まずはこのような全体システムのツールとして必要だった電気柵の会社を立ち上げた。
その少し前、ニュージーランドで電気柵の営業をしながら酪農をしている人を別海町の酪農家、今井真人氏に紹介した。今井氏は研究熱心で、すぐにニュージーランド式の放牧を始め、その後ずっと私のことも応援してくれた。
それから30年あまり。現在、ニュージーランド式放牧を営んでいる酪農家は、北海道を中心に400軒以上になる。
それでも、変革のスピードは遅かった。放牧を始めるというと、白い目で見られることもあった。そんな状況から脱却したいと思っていた数年前、また転機があった。
ニュージーランドの駐日大使が、北海道との関係を考えたいと言って訪ねてきた。私は、三方良しの精神を伝え、「まず与えなさい。ニュージーランドの酪農の優秀な人材を北海道に連れてきてほしい」と話した。ニュージーランドの力を借りれば、日本の農業を変えることができると思ったのである。

それがきっかけとなり、ニュージーランド政府、日本政府、北海道庁、ホクレンが協力体制を敷き、2014年8月から「ニュージーランド北海道酪農協力プロジェクト」がスタートした。
当時はTPP交渉の最中だったため、正式発表前、誤解を受けるような間違った報道をメディアにされてしまい、周囲から「北海道を売るのか」と責められて困ったものである。
こうして始まったプロジェクトで実施された調査で、上述の「若い牧草のエネルギー量は、トウモロコシに匹敵する」という事実が明らかとなった。こうしてニュージーランド式放牧は、理にかなっていることが証明された。

50~100年のスパンで考えると、現在の畜産は工業的である。人間はもともと牧畜の知恵を持っており、放牧によって草を家畜に食べさせてきた。現在は、米国の水資源を使った穀物を輸入して牛舎の中で与えている。結果、生態系が崩れ、他国の環境に負担をかけ、人間は長時間労働することになり、経営は不安定になった。
本当に良い食とは何か。その価値観は世界的に変わりつつある。欧州では、4時間以上放牧した牛の乳からつくられた乳製品にのみ付加価値がつき、米国でもオーガニックに力を注いでいる。日本でも環境意識や健康意識が高まるにつれ、遠からず、そういう時代が訪れると思う。放牧によって時間に余裕ができれば、加工品をつくる時間を確保でき、付加価値の高い製品を販売することもできるだろう。
【獣害対策から野生動物との共生へ】
私がエゾシカと関わるようになったのは、会社を設立して間もなくのころだった。当時、北海道におけるエゾシカの被害総額が約1億円に達し、深刻な問題として認識され始めていた。かかしを立てたり、犬を使ったり、石鹸をぶら下げたり、漁網を張ったり、さまざまな対策が試みられたが、どれもうまくいかなかった。
農業を変えるには、獣害から守ることも会社の使命ではないか。もしかしたら電気柵が対策になるのではないか。そう考えて海外の文献を調べたところ、これもニュージーランドにヒントがあった。

ニュージーランドは世界でいちばん鹿を飼っている国である。狩猟目的で英国から連れてきた鹿が増えすぎたため、一斉捕獲をして数を減らした。ところが、鹿の肉はドイツに、角は韓国に売れるとわかったため、今度は鹿を家畜と同じように飼い始めた。
ニュージーランドの鹿の飼育にも電気柵が使われていたことから、日本のエゾシカ対策にも応用できると考えた。そこで、鹿用の電気柵や金網、フェンスを日本に導入してみると、獣害防止に成功し、あっという間に広まった。
当時、行政には生産者や住民からエゾシカ被害の訴えが寄せられていたが、行政が注目した解決策がこの電気柵だった。1990年、北海道庁にエゾシカの「北海道エゾシカ問題検討委員会」が発足し、私も民間から検討委員として参加した。行政や大学教授らと共に、エゾシカ用電気柵導入マニュアルを作成し、全道に配布した。

私は、当時、エゾシカを畑から締め出すだけでは真の解決にはならないと訴えてきた。畑で作物を食べなければ、山の木を食べるので、山林の問題が発生してしまう。山林の問題は、河川や大気の問題に発展するだろう。したがって、間引いて個体数を調整しなければならない。

個体数が増えた要因のひとつに、エゾシカの天敵であるエゾオオカミを人間が絶滅させてしまったことがある。つまり、人間がオオカミの代わりを務めなければならない。一方で、捕獲しすぎて生態系を壊してもいけない。
獣害対策の先には保護管理が必要だ。さらに、食肉として有効活用することもできる。その取り組みが始まったきっかけは欧州視察にあった。

97
年、北海道大学名誉教授の大泰司紀之先生を団長とし、道庁や市町村などの行政担当者、研究者らの欧州視察があった。それに私と社員の井田宏之も同行し、捕獲から有効活用までを視察した。スコットランドには、鹿の管理全体をコーディネートする「アカシカ協会」があることや、欧州では鹿肉が高級食材として有効活用されていることを学んだ。

参加メンバーは滞在中、鹿肉有効活用の原稿を書き上げ、『エゾシカを食卓へ』という一冊にまとめた。帰国後、日本でも「アカシカ協会」のような協会をつくろうという話が持ち上がり、99年、「エゾシカ協会」(任意団体、後に社団法人)が設立された。大泰司先生を会長に迎え、視察に同行した井田が事務局長に就任した。
協会が取り組んできたエゾシカ肉の衛生管理のマニュアル作成や認証制度は、じつに画期的なことだった。

こうして、エゾシカ問題は獣害対策から始まり、有効活用にまで広がっていった。次に目指すところは、生態系まで視野に入れた野生動物と人間との共生である。野生動物は、家畜と同じ動物性たんぱく質だ。もっと言えば、生態系の循環のなかで健康に育った野生動物は、畜産の目指す究極の動物の姿でもあると思う。
【多様な人材を受け入れ持続可能な農村へ】
農業を変えるには、農村を変えなければならない。それが移住者を受け入れようと考えたきっかけである。ニュージーランド式放牧に取り組み始める人もいる一方で、やはり離農者は増え、農村の人口も減っている。私は悩んだ。自分がやっていることは、本当に農業の変革になるのだろうか。

そんなとき、びっくりドンキーの創業者がニュージーランド式放牧に関心を持ち、勉強会の支援を申し入れてくれた。それが全国の人に放牧から加工までを学んでもらう「グラスファーミングスクール」を始めるきっかけとなった。

加工業や外食産業と関わってみると、農業は、農業だけでは変えられないと感じた。米国の穀物戦略を含めた社会の構造のなかに組み込まれているからである。例えば、外食産業は約20兆円、仕入れは約8兆円、うち約4兆円は輸入食材である。4兆円と言えば、北海道の農業の売り上げの約4倍である。農業を変えるには、加工や飲食とも組まなければならないと考えた。

しかし、一人では変えることができない。農村で何か新しいことを始めようとするのは大変なことだからである。全国から変わり者が集まれば、加工や飲食、販売ができ、変えられるのではないかと考えた。
農村に多様な人材を入れよう。そう考えて始めたのが、当別町金沢地区に移住者を受け入れることである。移住者たちが、必ずしも生産から加工、販売までをするわけではなく、農村に多様な人々がいることが重要だ。移住者の受け入れを始めると、じつに多様な職業の人々が集まった。現在、移住者は30軒以上に達している。

私は、農村に多様な人材を増やすとともに、この金沢地区を新しい時代の農村の姿のモデルにしようと考えた。新しい時代というのは、持続可能な農業・農村である。ヒントは、ニュージーランドや欧米のライフスタイルファーマーである。都市近郊で、小さな放牧経営をしながら生活する人をそう呼んでいる。酪農は、大きな経営になると、為替や世界情勢に影響される。しかし、小さい経営は、飼料を自給し、何軒かが集まって協力すれば、付加価値の高い乳製品に加工することもできる。

ニュージーランド式放牧も、野生動物との共生も、多様な人材を受け入れることも、私が一心に目指してきたのは、持続可能な農業・農村をつくることである。その先には、ニュージーランドで見たような、豊かな暮らしがある。
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1 件のコメント:

  1. ニュージランドの放牧 を興味深く拝読しました。地道なご努力が確実に実を結んでいることに敬意を表します。 有難うございました。     〆

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