2018年4月15日日曜日

地域を活性化し、人口減少に歯止めをかけた集落営農法人

新・農業経営者ルポ

地域を活性化し、人口減少に歯止めをかけた集落営農法人

  • 第165回 2018年03月29日

  • 地域のことを行政に委ねるだけでいいのだろうか。住民自身が地域を活性化させるために何かできるのではないか。広島県東広島市の小田地区では、平成の大合併を機に住民が現状に対して疑問を抱き、自らの手で地域を元気にしたいと「小さな役場」と「小さな農協」を作った。「ピンチはチャンス」の逆転の発想で住民の意見をまとめ上げるのに一役買ったのが、小さな農協に当たる農事組合法人ファーム・おだ顧問の吉弘昌昭(79)だった。 文・写真/窪田新之助・山口亮子、写真提供/ファーム・おだ
今回、ファーム・おだを訪問しようと思ったきっかけは、筆者(山口亮子)の出自と切っても切り離せないので、少し自己紹介をさせていただきたい。筆者は愛媛県南西部の山間の集落の出身で、今年31歳になる。中山間地で、実家の農地は山間と谷間に点在しており、全部で1haに満たない。最近やっと基盤整備をして、それでも1枚の田んぼが30?aいけばいいほうという条件不利地だ。
通っていた小学校の児童数は入学時に60人余りいたが、卒業時には30人を切っていた。集落は物心ついたころには限界集落になっており、中学校に通うのに使っていたバス路線は、高校に上がると同時に廃線になってしまった。小学校はちょうど5年前の2013年3月末に閉校した。
閉校になった小学校をどうするかという議論が住民の間でされる前に、福祉法人から介護付き有料老人ホームとして活用したいという申し出があり、その要望どおりに事態は進んだ。廃校になってから2年ほど後に小学校を再訪した。校庭まで建物を増築しており、かつて遊んだ校庭に張り出したガラス張りの共有スペースに、介護職員に付き添われた車椅子の老人がいるのが見えた。寂しいとか悲しいとかいう単純な言葉では表現できない、感情の波に襲われたのを覚えている。
小学校がなくなるということは、過疎高齢化の進行する地域にとって避けては通れない通過儀礼だ。地域の連帯感や結束力はこれを分岐点に一気に失われる場合が多い。その危機に面して、今回取り上げる小田地区は住民自身が地域の課題に向き合い、解決方法を探っていく自治組織「共和の郷・おだ」を作った。小学校の旧校舎を「小さな役場」にし、地域に活気をもたらしているというその存在を2年ほど前に知って以来、ずっと訪れたいと思ってきた。
小田地区は標高265~300mの中山間地域で、小田川流域に棚田の広がる盆地に13の集落を持つ。農家1戸当たりの平均面積は約70?a。農業をするうえでの条件が恵まれていないこと、そして人口流出が進んでいたことにおいては、実家のある地域と共通する部分が多い。 
なぜ同じような条件不利地で、しかも小学校の廃校という同じイベントに直面しながら、これほどまでに違う結果がもたらされるのか。棚田の合間に赤い屋根瓦の日本家屋が散在する絵に描いたような風景の中を車で走りながら、脳裏からはその疑問が離れなかった。 
地区の中心にかつての小田城址の高台があり、そこから少し下ったところに旧小田小学校がある。2004年に廃校になっているが、地域の拠点として使われているので、2月下旬の取材時には駐車場の半分ほどが車で埋まっていた。 
ガラス扉に「往診歯科おだ」と毛筆で大書した紙が貼られており、驚いた。「歯医者さんが開業したいと広島市からいらっしゃって、2階で診療をされています」と吉弘が説明した。 

住民のやりたいことを地域で支援する

校舎内に入ると、女性たちの和気あいあいとしたおしゃべりの声と、香ばしいにおいが廊下に漂ってきた。 
「1年生の教室を調理室に改造していて、今日は地元の『くるみ会』というグループがここを使って米粉パンやお菓子を作っています」 
調理室に入ると、ちょうど6人の女性たちが米粉パンの生地をこねているところだった。 
「取材に来たの」 
「吉弘さんのインタビュー?」 
皆さん調理室の中を忙しそうに立ち回りながらも歓待してくださる。話しているうちに「あと1時間くらいでお昼にするから、召し上がっていきませんか? 1人分余るから」とありがたい提案をしていただく。 
取材を終えて調理室に戻ると、ちょうどアツアツの米粉パンが焼き上がったところだった。お昼に用意してもらった米粉ピザは、普通のピザ生地よりもふんわり、しっとりしていておいしい。調理室の端では米粉を使ったシフォンケーキを冷ましているところで、ほかにも米粉を使ったお菓子を焼いているという。 
車で2分ほどの至近距離には、米粉パン工房「パン&米夢(パントマイム)」がある。これはもともと米粉を使った菓子づくりに熱心だったくるみ会のメンバーが、本格的な米粉パンの製造をしようと決め、ファーム・おだの支援で加工施設と店舗を2012年に作ったものだ。 
地元産の米粉を8割使ったパンは子どもから大人までおいしいと人気だ。製造・販売に8人が従事しており、地元の雇用創出になっているうえ、コメの新たな需要づくりにも成功している。ファーム・おだは2006年に事業を本格化させてから売り上げが6000万円前後で横ばいだったが、パン&米夢の健闘もあって2013年には売り上げが1億円を突破した。 
取材で訪れた日はパン&米夢の定休日だった。調理室にいる女性メンバーの中には翌日から店頭に立つ人もいる。皆さん忙しそうに、でも楽しそうに調理をしている様子を見て、地域住民の中から何かをやりたいという声が自発的に出てきて、それを地域全体で後押しするという小田地区の地域の回し方の一部が垣間見えた気がした。 

地域拠点の統廃合を機に小さな役場設立

小田地区は昭和25(1950)年に約1500人いた人口が、今では213戸約600人で高齢化率は49.2%。明治22(1889)年までは小田村という独立した行政区だったが、その後合併を繰り返し、平成の大合併を機に地域のよりどころとなっている小学校、保育所、診療所の統廃合の話が出ていた。 
小学校がなくなると、地域は灯が消えたようになってしまうのではないか。地域の灯が消えないようにするにはどうしたらいいか。危機感を持った地元の有志から、広島県農業会議にいた吉弘に声がかかった。 
吉弘ら6人ほどのメンバーは地域住民が新たに自治組織を作った先進地を見て回り、小学校を地域住民が使える施設に改造し、「小さな役場」を置くことにした。総務企画部、農村振興部、文化教育部……といった具合に、まるで役場のような機構を持ち、地域の課題に臨機応変に対応しようというものだった。「私は、組織を作るということは今までの経験からよく知っていますから、組織づくりに関していろいろと助言しました」と吉弘は当時を振り返る。 
吉弘は副会長に就任し、農村振興部の部長を務めることになった。農村振興部長の立場から地域の農業を見たときに、このままではいけないと思ったところから、第二の組織づくりが始まる。 
当時、小田地区でも過疎高齢化と農業の担い手不足、遊休農地の増加が深刻になりつつあった。加えて米価の下落で、当時、農業による赤字は1戸当たり平均で年45万円に達していた。地域住民は将来をどう考えているのか。正確に把握したいという思いから、2004年にアンケート調査をした。 

「10年後農業続けられない」6割強の衝撃

その結果は驚くべきものだった。「5年後には農業を続けることができない」という回答が42%、「10年後には農業を続けることができない」が64%に達した。 
「6割が農業ができないという状況になったら、荒廃地が増大し、集落の崩壊に向かいます。これはもう大変なことですよ」 
吉弘は農地を守り、集落を崩壊させずに農業を維持・発展させるには集落の農業を法人化するしかないと考えた。 
「個人でやる農業にそこまでの危機が来ているということは大変なことです。ピンチはチャンスと言いますね。なぜなら、農家の皆様の思いが共有できるからです。では、個人で農業ができないのなら、こういう方法はどうですかと提案して、小田の場合は幸い同感して行動してくれる人がおった」 
法人化という発想がぱっと思い浮かんだのは、吉弘が広島県で集落営農の法人数を劇的に伸ばした立役者だからだ。広島県内には現在272の集落法人がある。その数の激増は、集落内で法人化を率いるリーダーを育成する「集落法人リーダー養成講座」の開催によるところが大きい。2001~04年にかけて広島県農業会議でこれを主導していたのが吉弘だった。広島県は農業をするうえでの条件が悪く、個別経営が成り立ちにくいため、集落営農を勧めたが、なかなか設立に至らなかった。 
「一番必要だったのはリーダーの養成だったんです。個人の経営はわかっていても、法人経営はなかなか経験した人が少ない。したがって、自信を持ってやってもらうためには、まずリーダーを育てようと、 
リーダー養成講座を始めたんです。これが最大のポイントです」 
こうして、法人の設立方法や手続き、事業計画の立案、税務、会計などを学ぶ講座を開いたところ、設立数が伸びていったのだ。 
農業会議時代に培ったノウハウは、小田地区で法人を立ち上げる際に大いに役立った。2005年2月から50回にわたって話し合いの場を設けた。農業会議のリーダー養成講座の「ミニ版」(吉弘)として「共和塾」を開き、地区内のリーダー20人に学んでもらう機会も作った。こうしてその年の11月、ファーム・おだ設立にこぎ着けた。 

一番大事なのは人づくり

「同志を増やしていったから、設立までは9カ月で早いほうでした」 
経営に必要な人、物、金、情報という要素の中で、一番不足するのが人だと吉弘は言う。今のご時世、情報はあり余っている。金と物も工面すればなんとかなる。そんな中で、人はどうにもならない。人の養成を最重視するという考え方の正しさが地元の小田での法人設立でも証明された。組織を小学校単位にしたのも、そのくらいの広さにすればある程度人材がそろうからだ。 
こうしてできた同社は、設立当初から成果を上げていく。法人設立時に機械を地域にない大型のものだけ購入し、格納庫などは地域にあるものを活用したところ、かかった費用は6200万円だった。法人化前には機械を個別の経営ごとに買っていたので、これを試算してみると地域全体で機械に7億3000万円もの投資をしていたことになった。法人化による機械の効率化の威力は歴然としている。
ロットが大きくなったことで、有利な販売もできるようになった。最初の6年間は定年退職者で運営をし、組織の体力がついてからは若者を雇用している。今、20~50代の15人と60代以上の30人ほどを雇用しており、まさに人づくりができるようになっている。 
小田地区の人口は減少が続いていたのがここ数年横ばいになっている。若い夫婦13世帯が移ってきたからだ。移住するうえで大事だったのは、地元出身の夫の意向ではなく、妻のほうが「小田地区はきれいで子どもの教育にいい。生活費も安くつく」と転居に積極的だったことだという。 
車で小田地区を縦断する県道を走っていると、吉弘が「この集落はきれいでしょう」と言う。確かにセイタカアワダチソウが茂っていたり、ススキが視界をふさいでいるようなところがなく、田んぼの畦畔は手入れが行き届いている。 
「草刈は年3回でいいと言っていますが、5、6回刈る人が多い。これも草刈にファーム・おだがお金を払う仕組みを作っているから」 
とはいえ、住民にここまで行き届いた管理をさせているのは、単に経費が出るからだけではないだろう。地域に対する愛着と誇りが行き届いた管理につながり、Uターン、Iターンを促す。「地域の灯を消さない」という吉弘ら当時のリーダーの思いは、次の世代にも引き継がれていくだろう。 
ところで、取材を終えた今も、なぜ小田地区が地域の灯を消さないことに成功し、筆者の実家の辺りは逆に灯が消えたようになってしまったのか、両者を分けたものがなんだったのかはわからない。こうだからこうなったという方程式はそもそも存在しないのだろう。ただ、なんとなくこうなのではないかと感じる部分はあった。 
小田地区の場合、合併で広域化する一方の行政が地域のニーズを細かく吸い上げるのは難しいと考え、自分たちで課題を見つけ、対策を立てるべきだと考えた。筆者の実家の場合は、行政経由で持ち込まれた福祉法人に校舎を譲るという案に、住民は行政の提案だからと乗った。その提案がなかったら、何か独自の活用法を考えたのかといわれると、そうなったとは思わない。地域の中で住民が主体的に考えるということの習慣が、小田地区にはあって、筆者の実家のほうには乏しかったのだろう。 
ファーム・おだの事務所には「何もやらなければ愚痴が出る。中途半端にやれば言い訳が出る。一生懸命やれば知恵が出る。」という「れば三訓」が模造紙に大書して貼り出してあった。吉弘は見上げながら「好きな言葉なんですよ」と言っていた。負のスパイラルに陥ってもおかしくなかった小田地区の歯車が正の方向に回り始めた理由は、この言葉をより多くの住民と共有できたことにあるのではないか。一生懸命やるということを知っている地域は強い。心底そう思う。 (文中敬称略) 
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